王妃はあの儀式の間での一件より、王宮の奥深く、それもかなり奥まった所にある離れに籠められていた。
最初は城の一室に部屋を用意されていたのだが、隣室で何やら事件が起きたとのことで、追い立てられるようにして寂れたそこに押し込められたのである。
そうした経緯もあってか、あれから何も喉を通らず、すっかりと窶れ果てた王妃であったが、二日目の夜のことだ、王妃の実家であるボルツフェル公爵家よりの遣いがやってきた。
「……何用でしょう」
遣いとして現れた男は、挨拶もそこそこにあるものを差し出してきた。
それは一つの小瓶であった。
つるりとした硝子細工の細かな装飾が大変美しかったが、何故か王妃はそれを見て寒々しい気持ちになった。
「こちらは公爵様からの贈りもので御座います」
まさかと思った。
だが恐らくそうだ、これがあの父からの贈り物と言うのであれば、小瓶を贈るということそのものが、王妃に対して「自害せよ」という命令そのものなのだろう。
そうだ、これは毒の詰まった瓶に違いないと、王妃は一目見るなり直感してしまったのだ。
そして王妃がそのことに気づくや否や、男は「厳命であるとのことです」とだけ告げて、そのまま部屋を下がってしまう。
後に残されたのは王妃一人。
王と出会い、慈しんだあの日々は一体、なんだったのだろう。
「もう、父上の元にも戻れぬか……」
元よりも帰る場所などあろうはずもないとは分かっていたことだ。
けれど、それでも僅かでも希望を抱いていたというのに……
あのように王女が日々育っていっていると報告が届くにつれ、絶望したものだった。
魔力は無いのか?
魔力が放出される、その兆候すらないのか?
届いた報せを元に、何度食い下がったことだったろう。
魔力がないと気づいたのは、確か王が愛妾の元に通い始めたのと同じ頃だった。
ふいにそんなことに気がついた。
王女のあの予言めいた言葉をまこととするならば、愛妾はまさしく、リニム王家の世継ぎを生んだことになるのだろう。
「……なのに、わたくしには魔力の無い王女がただ一人だけ」
笑えもしなかった。
狂いそうだった。
目の前の小瓶を見下ろすと、何故か話しにだけ聞く「海」が思い起こされる。
王妃は今の今までリニムから出た事がなかったため実際には見た事はないが、それは海のような青をくっきりと映しこんでいた。
空よりも濃いその青に、魅入られたように王妃はそれを手に取った。
「父上……」
公爵より渡されたこの小瓶は、ある意味では王妃を助けたのだろう。
王から向けられてきた無上の愛が遠ざかっていく辛い日々からも、世継ぎを得られなかった絶望からも――自らが産み落とした娘が、有り得ないまでに不気味に育っていくその現実からも、この小瓶によって永遠に逃げることが出来るのだから。
***
この世界でどれだけの間暮らすことになるかは分からない。
元の世界よりの迎えが来るまでか、それとも自ら帰還する道を探し終えるまでのこととなるのか――それすらも今は分からないが、王女は元の世界へと帰れるようになるまでは、ここで生活をしなければならないのが否が応にも決定している。
(とは言え、このままここに居れば殺されるからな。この国からは逃げることになるとは思うが……)
戦後のリニム国内の知識というものは、大変な値打ちになることを王女は知っていた。
知識さえあれば、それこそどこに行っても暮らすことが出来ることも知っていたのだ。
自身の身を守るため、そしてこれを武器として他国の要人とも交渉することさえ可能になるそれ――それがこの図書館にはぎゅうぎゅうに詰まっているのだ。
まさしくここは宝の山というわけだった。
(いや、命綱のほうがあってんのか?)
まさかあの薄汚れた塔から知識の泉に出られるとは思ってもみない誤算だったが、これを利用しない手はないだろう。
王女は隠しきることの出来なかった笑みをこぼした。
それに暫しの間生活するこの世界のことを、何一つ知らないままでは些か不都合ということもあるだろう。
そういった諸々の事情があり、王女は一心不乱に勉強に打ち込んだのである。
(ともかくこれがないとリニムの王女様は無価値だからなぁ)
知識一つで明日を生きることが出来る、ここを出ればそういった暮らしが待っているのだ。
一つ一つが断片的で繋がりのない、まるで夢か現のようなそれ――けれどそれらは一つとして捨ておけないほど不吉極まりないものだった。
そして、そんな不確かなもののくせにやけに鮮明で――一つとしてそれらの記憶を捨ておくなと、王女の中の何かが強く訴えかけてきていた。
そんな時は決まって王女の胸がつきりと痛む。
「ほんっと、わけわっかんねー……」
胸が痛むと同時に泣きたくなるような気持ちになって――それが無性に腹立たしい。
そして、そう思ってしまうことがなぜか悔しかった。
近代史を学ぶことで、リニム王家、そしてリニムという国家について段々と理解してきた。
ついでとばかりに他の国の書物もほんの僅かだが、この図書館の中には存在していたため、そちらも少し齧る程度に記憶する。
すると少し気になることが出てきた。
「――そうしてリニム王家は魔石を独占してきたわけですね」
つまりはリニムと言う国そのものが、周辺諸国を魔石一つで操ってきたような、世界を裏で支配しているようなとんでもない国なのだとまで言われれば、王女としても首をひねりたくなるというものだ。
ここまでは宜しいですかと尋ねて来るミシェルに、王女は曖昧な返事を返す。
勉強を教えて貰っていてなんではあるが、ミシェルの教えは可也偏った――いいや、穿った考え方をしていると言っていいだろう。
それも、王家に対して妙に敵愾心を持っているようにも思えるのだ。
(と、言うよりも……俺に王家への疑心を抱かせたい。そんな風に思えるよなぁ、とかって……なんでだ?)
確かに魔石を盾にすることは出来る立場にあるのだろうが、それでも過去にリニムがそんなことをしたという歴史があるわけでもない。
単にそれが出来るというだけだ。
だというのになぜだかそれをする前提で話をされていることに引っ掛かりを覚える。
とは言えそれに反論する言葉すら持たないため、王女は黙ってミシェルの教えを受け入れることしか出来ないのだが。
「勉強になりますねぇ」
「そう言えばアイアンバッハ殿は他国からいらしたのですよね?」
「ええ。と言ってもミシェル殿の知らぬ国でしょうが……この、魔石とは一体?」
ミシェルはアイアンバッハの言った知らない国について言及したそうだったが、アイアンバッハから質問が飛ばされてしまえば聞くことも出来なくなってしまったようである。
魔石について詳しく解説した教科書となる古書を探し出そうとしているミシェルを、じっと観察していた王女はと言うと、ふいに面を上げて「こっちに誰か来る」と告げた。
「外、ですか?」
アイアンバッハがさり気無く腰のものに手をあてながら尋ねれば、王女は相手が丸腰の女であると言う。
それを聞けばアイアンバッハは両手を下げて武装解除後、どなたでしょうと首を傾げた。
それを見て怪訝そうな顔をしているのはミシェルだ。
「分かる……ものなのですか?」
「なら扉を開けて確認してみれば?……まあ、どうやら文官でないことだけは確かだよ」
物言いたげにアイアンバッハへと視線を投げかけるも、アイアンバッハからミシェルに返される目は、王女を支持するものだった。
ミシェルは席を立つと扉へと向かい、躊躇しつつもゆっくり扉を開いた。
そこには王女の言う通り、こちらに向かってくる女がいた。
「……何かこちらにご用でしょうか?」
「え?ああ、その……こちらの図書館を通れば、あちらの塔へと人に知られぬように行くことが出来ると伺ったのですが……」
本当に行けるのだろうかと怖々訊ねてくる女に、ミシェルは躊躇いがちに口を開いた。
「……塔へ?もしや王女殿下にご用事でも?」
「え……ええ……」
陛下に知られぬようにこっそりと、王女を連れてくるようにと言われて参ったのですと女が答えると、ミシェルは肝心の誰から頼まれたのか――これを明かさない女に眉を顰め、逡巡したものの、二人を振りかえりどうしますかと尋ねてきた。
「どうしますかって言われてもな……」
ひょいと扉から顔を覗かせた王女に女は仰天し、何故ここにと喘ぐように呟くと同時に、慌てて膝を折ろうとするが、王女はそれを押しとどめた。
「その匂い、お前王妃の侍女だろう?」
「……そう、ですが。何故お分かりに?」
「んー、まぁ、匂い?――じゃあ、王妃の用でここまで来たってことか?」
「は……はい。妃殿下がお呼びで御座います」
深々と頭を垂れる侍女を前にして、王女は迷うことなく直ぐ様行動を起こした。
背後のアイアンバッハに声をかけ、連れていって貰えるよう頼んだのである。
けれど不思議なものである。
王女は己の目の代わりにアイアンバッハを連れていこうと考えているようたが、あのように母である王妃から口汚く詰られたばかりだというのに、その母の元を訪ねることについては全く異論はないようなのだ。
そのことに些か疑問が残る。
そうした僅かな疑問と共に戸惑いを見せつつも、侍女は丁寧に感謝の礼を述べた。
「では、そちらの方は?」
「ミシェルか?どうする、ミシェル?お前もついてきて構わないぞ」
「……そう、ですね。私もついていきます」
「では、私の後をついてきてくださいませ」
三人を伴った侍女は、人目を避けるように人通りのない通路をわざわざ選び、進んでいく。
「先日から妃殿下は天極宮に移られておいでです。王宮の中にある部屋に招く事が出来ず申し訳ないと、妃殿下がおっしゃっておられました」
「元の部屋も今の部屋も、俺は興味がねーよ。大体俺には見えないしな。つうか俺は牢獄に自ら進んで入るようなやつなんだからさ、気にしなくていいって」
呑気に答える王女に対し、ミシェルは最後尾で先ほどから顔をこわばらせていた。
やはり疑っていた通りなのかもしれない。
(この子供……全て知っていてあの部屋から逃れた……)
王女の居所にあたりを付けて、そこらじゅう探し回って見つけたのがあの塔だった。
目の前をしずしずと歩く女同様に、ミシェルも図書館からあの塔へと侵入を試みたのだ。
だからこそ文官のなりをする必要があった。
そうでなければ文官の装いなど誰がするものか。
このような薄っぺらい衣装では、どこにも武器を仕舞い込む場所などないため落ち着かないのだ。
そして図書館へあの日そわそわとしながらやってくれば――その場にあまりにも似つかわしくない熊のような大男と出会ったのだ。
扉が激しくぶつかってきたため意識が軽く遠のきはしたが、それだけだった。
けれどアイアンバッハの顔を見れば流石に度肝を抜かれた。
咄嗟に気絶したフリはしたものの、思わず手が――というよりも拳が出そうになったのをぐっとこらえられた自分に拍手してやりたいほどだ。
なぜあのような場所にあんな大男がと混乱が頂点に達し、慌ててしまったのは誰にも知られたくはない。
――まあそういった諸々のことは脇に一旦置いておいてだ――兎も角、ミシェルは王女になぜあの塔へ自ら進んで繋がれることを望んだのか訊ねてみたわけである。
返ってきた答えはやはりというかなんというか、ミシェルが警戒するに値するそれであった。
弱冠五歳というその年齢にそぐわない頭の回転の速さを窺わせるその言葉回しに、言葉を選びながら話すその冷静さ、王女を観察してみて思ったことは彼女の背後には誰かいるのではないか、というものだった。
そうでなければあの選王宮から出てきたばかりの子供が、どうしてああも簡単に自分達を撒いてあの塔へと逃げ込めたのか分からない。
かといってその手引きの者が誰なのかも分からないのだが。
(アイアンバッハの部下、だろうか?)
いや、違うかと即座にミシェルはその答えを否定するなり黙々と歩き出す。
いつの間にか足が止まってしまっていたようで、王女達とは距離が空いてしまっていた。
けれどそのことに気づいているはずの王女もアイアンバッハも、ミシェルには何も言わない。
その時三人の間を吹き抜けた風は、嫌に寒く感じられた。
***
王女が呼ばれるままにこの場に来たこと、それそのものが信じられないとばかりに王妃は目を見開いて驚いていた。
思わずなんで驚いている風なんだと訝るように問えば、弾かれたように王妃は席から立ち上がり、慌てて椅子を勧めてきた。
王女は気づくことはかなわなかったが、実は王妃の目は先ほどからずっと泳ぎっぱなし、指先は細かく震えているのだ。
そしてそのぎこちなさが王女にも次第に伝染し始めたようだった。
「何か……その、あったのか?」
先日初めて会ったこの世界の母である存在。
前回はその母に対し「あなた」と他人行儀に呼びかけたものの、何かそれも違うように今では思う。
だがしかし、他になんと呼びかけて良いものか分からない。
妙な話しかもしれないが、母と呼ぶのが憚られていた。
確かに王女にとってみれば母であると言える人物はたった一人、元の世界の本当の母親だけである。
この世界の身体の生みの母であってもそこだけは譲れない。
――ただし、それが理由で「母」と呼ぶ事を憚るものではなかった。
そもそも王女は、別に本当の母に気兼ねしているわけではないのだ。
それは王女ではない別の――恐らくは今王女と対面している王妃の本当の娘。
夢で見た彼女が持つのは、王妃と並ぶと実によく似た美しい金の髪だ。
そして顔も良く似ていた。
そんな親子が笑いあっている幸せな光景が、何故か王妃の声を聞くたびに、ふっと脳裏に浮かび上がるため、どうしても母とは呼べないのだ。
あの子こそがこの母の本当の娘なのではないか、そんなワケのわからない考えが脳裏を掠めるたびに怯む。
それはまるで、「本物」が王妃を母と呼ぶなと訴えかけているようだった。
いや、単に王女がそう思いこもうとしているだけなのかもしれない。
王女はゆるゆると頭を振る。
結局王女も怖いのだ。
自分自身という不確かな存在が。
そもそも夢の中だか予言だかでしか見る事の出来ない、そんな不確かな現実には居もしない「本物」らしい少女。
そんなものが実際居るのかと疑いながらも、王女はその「誰かさん」に気兼ねして王妃を母とは呼べない。
単に確証がないのもあった。
そして王女には本当の母も居た。
だから、王妃がどんなにか王女から母と呼ばれたがっていたとしても、呼べない。
そのかわりに王女はその「誰かさん」を深く考えないこととした。
だから今では脳裏に浮かぶその少女を、王女は自分の危機を知らせるために出てくる存在であると考えていた。
あれは一体誰なのかなどと深く考えてはならない、絶対に――自分にそう言い聞かせて。
けれどその存在こそが王女をここに呼び寄せた張本人であり、更には自身にとって何者にも代えがたいほどの大切な存在なのだ。
けれどそんなこととはつゆ知らず、王女は頑なに幻であるのだからと、少女について思考することを放棄していた。
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