忘れ去られし塔へと足を踏み入れると、王女は男を見上げ、次いで首を傾げた。
小さな王女が可愛らしくちょこんと首を傾げている様は、実に微笑ましいものに映る。
そんな愛らしい王女をうっとりと見つめてアイアンバッハは熱っぽい吐息をついた。
「――大変可愛らしくていらっしゃいます」
ほうっと鼻血を垂らしながら言われれば、王女は若干引きつった表情になり一歩後退してしまう。
やはり慣れていても湧き上がる嫌悪感だけは如何ともしがたいものがあった。
「お前は相変わらずだな、アイアンバッハ」
血の匂いと息の上がり具合から相手が鼻血を垂らしたことを悟ったようだが、全盲の王女が巨躯の男を見上げて言うのだから、何も知らない者が見れば王女の目は視えていると思ってもおかしくはない光景だろう。
王女は疲れ切った表情を浮かべると、アイアンバッハにこの埃まみれの汚らしい塔の案内を頼んだ。
いかな王女とは言えど、目が視えぬ中、初めて来る場所では案内なしでは少々きつい。
構造が頭の中に入っていないのだから当たり前と言えば当たり前だが、視界がないためそれを案内なしでは知りえようもないのである。
「大体の形なんかはなんとなく分かるんだが……困ったことに朽ち果て具合、それと足元の散らかり具合も分からん。来てみたものの、早まったかとも思っている所だ」
人とは違い、物質そのものには気配はない。
そのため、静物は本当に分かりにくいと言われれば、王女が実に不便な身体になってしまったことにアイアンバッハは気がついた。
それどころか本来の王女の姿を知っているがゆえに、王女が感じているであろう歯がゆさは、アイアンバッハには痛いほどに理解出来たのである。
「人の配置などは大変細かく分かっていたようでしたが……」
アイアンバッハが王女の腕を引いて塔の一階の隅から隅までを案内しつつ、言葉を繋ぐ。
クモの巣を払い、足元にある小石を退けつつ歩くその姿は、王女に不便がないようにとの配慮なのだろうと分かる。
そして王女自身、そうした献身的な様子を受けて、やっと綻んだような笑みを浮かべて見せた。
「人の位置くらいは分かる。この五年間、俺は選王宮の中に閉じ込められていた。その間は侍女と……家庭教師だと思うんだが――やつらと鍛練してた。つーか、あいつらと追いかけっこしてて、動きとか諸々のことに慣れたってのが、実際のところの話なんだけどな」
閉じ込められて逃げ出す事も出来なかったため、それくらいしかやることがなくてなあと言われれば苦笑してしまう。
王女として何不自由ない暮らしを約束されていたはずなのに、それではどこの腕白坊主だという暮らしぶりではないか。
それを受けてアイアンバッハは鷹揚に頷いて見せた。
王女が健康そのものの上、更には身体も動かすのに何の問題もないとあれば、脱出は容易いだろう。
アイアンバッハとしてみれば、目的の王女が居たのだから、今すぐにでもこの国を後にしてしまいたいところである。
王女も恐らくはそのはずだ。
それは王女が自分をあの場より連れ出したことからも明らかだ。
盲目故五年もの間、たった一人で選王宮の中、耐え続けていたに違いない。
けれどそれも自分が現れたから終わりを告げた。
二人で元の世界に帰るのだ。
アイアンバッハはふいに足を止めて王女を振り返り、こんなことを尋ねた。
「――そうです……全盲と聞き及びますが、それはまことですか?」
「そうだ。この身体はどうやら生まれながらの全盲らしい。光すら感じられんぞ」
「矢張り、本当なのですね」
アイアンバッハは王女の言葉に肩を落として残念がるが、王女は逆に「そう落胆したもんじゃねぇよ」と胸を張ってみせた。
「……と、言いますと?他に何かあるのですか?」
「視えていた頃よりも、感覚は鋭敏になった。まあ、多少なりと寸足らずだからなあ……そこは補うために鍛練はかかさず行わなくちゃならないとは思う。が、随分と視えていた頃よりも、感覚が鋭くなったように思えるんだよなー。だから基礎的なところで、俺は強くなったんじゃね?……なんてな」
とはいえそれは、前と同じだけの背丈が与えられていればの話しだろうが。
「……なるほど」
王女の現状をある程度それで理解出来たのか、二度頷いてからまた先を進み始めた。
「ああそうだ、顔は一応そのまま、前と全く同じのようですよ、アッシュ」
「……そりゃあ、嬉しい情報、なのかな?」
「それと、髪も目も、以前と全く同じ色です……」
それが幸いなことか、それとも不幸なことか分からないとばかりに顔を顰めるアイアンバッハの様子に気が付いたのか、王女が怪訝そうな顔をする。
その様子にアイアンバッハは躊躇いながら「かなり目立つお色ですので」と、柔らかい言い方で言葉を濁した。
「目立つ……のか。マジか……」
と言うよりも、王女が依然と同じ色ということは、今王女の髪色も目の色も黒と言うことである。
けれどそれではおかしいのである。
(あの記憶の中の王女様は金髪のかわいこちゃんなわけで。そんで俺がなんでか今はその王女様をやってるっぽいわけだ。ここまでは良しとして、だ。……だっつーのになんで俺は元の色、っつか元の顔してんだ?ってことは何か?あの記憶の中の金髪天使は今の俺――ってか、今の【王女】とは違うってことか?)
金髪の王女様、そして今の自分の立ち位置、それが重なっているというのになぜかその見た目だけがそぐわない。
そのことだけが嫌に引っかかる。
王女が悶々と一人頭を悩ませて辿りついた答えは、「あの夢か幻か分からない王女様は、自分にとっての幸運のお守りみたいなもの」となった。
王女がこの世界で生き残るための鍵となる金糸の少女。
なぜか王女の夢か記憶か、そのよくわからない曖昧なものの中に登場しては、幾たびも死んでいく未来を見せてもらった。
不幸な未来、先にそれを見せて貰っていなければ、先ほどのあれだってどうすることも出来ないままに、呆気なく死んでいただろう。
ならば――
(あれを利用して生き残るっきゃねー、な……)
それは金糸が散るあの光景を、嫌でも思い出さねばならないということでもある。
今の自分の立ち位置と重なるだけに思い出すことでかなり気分は悪くなることだろう。
けれど、生き残るためにはやらねばならないことだった。
王女がそんなことを考えているとは知りもしないアイアンバッハは、全盲ゆえに今の今まで自分の顔を見る機会を得られなかった王女を想い、何やら物悲しい気持ちになっていた。
(ああこの方は本当に、目が視えてはいらっしゃらないのだ)
見も知らぬ土地に落ちてきて、見知った顔がたとえ自分のものであろうともそこには存在するというのに、王女にはそれを見ることの出来る目、そのものがないのだ。
それを知れば虚しさが胸の中一杯に広がっていき――それと同時に、こんな言葉がついて出てきた。
「嬉しくはないのですか?ご母堂と同じ、大変美しいご尊顔が、そこにあるというのに……」
「そりゃお前は嬉しかろうよ。お前はあの人の顔が好きだったからな。でも俺は……っつかこの顔……毎回お前が言うたび思うが、俺にはぱっとしない顔をしてると思うぜ?美しいの定義が良くわからん」
はっきり言ってしまえば、王女からしてみれば見飽きた顔だ。
と言っても、王女が見飽きている顔と言えば、王女自身の顔とアイアンバッハ、そして母の顔くらいなのだが。
他に人の顔なんてものが近くになかったためか、逆に言えば比べるものが何もないのだ。
「……はぁ、まあ、その件につきましては、時間をかけて理解していっていただければと思いますよ」
アイアンバッハは困ったとばかりに眉間を指でもみこむようにする。
どうにもこの主はいただけない。
生まれが生まれということもあり、元の世界で王女は散々その容姿を馬鹿にされてきた。
その存在そのものが汚らしいと蔑まれ、この世界での異質である「黒」も事あるごとに笑われてきたのだ。
曰く、凡庸な色だと。
そして身近な人物というのも、王女の傍には王女と全く同じ顔をした母と、そしてアイアンバッハしかおらず――結果的にアイアンバッハが王女を慰め続けているような構図がいつの間にか出来上がっていたというわけである。
真実美しいのだと言っても、単に慰めてくれているだけなのだなと、いつの頃からか王女は聞く耳持たなくなっていき――気づけば今のようにこうして美醜について語れば「はいはい」と聞き流されてしまうようになっていた。
そもそも鏡のようなものもなく、ただそこにある母の顔だけを眺め続ける毎日だ。
母が美しい人なのだということを知らず、従者たるアイアンバッハも相当に整った顔をしているのだが、やけに男臭い風貌をしているためか、自身を単になまっちょろいだけの青二才としか思っていない。
結果として、美というものの価値観が揺らいでも、何らおかしな状況ではなかったのである。
閑話休題。
――と、ここまで言うと何やら引っ掛かりを覚えた王女は、首を傾げて尋ねた。
「そう言えば、さっきの儀式とやらでも少し引っ掛かったんだよな。それで、お前に確認したい事があるんだが……まあ、聞けよ」
「はい、なんでしょう?」
「一応の確認だからな。一応の」
「そう念を押されずとも大丈夫ですよ……」
「俺は、今、なんだ?」
「……なんだ、と申されますと」
アイアンバッハは主語のないこの言葉に内心首を傾げた。
王女の言いたいことが本当に分からないらしい。
だがこれに王女は、何故察しないとばかりに理不尽にもアイアンバッハの足を蹴りあげた。
王女の小さな踵のある靴が、アイアンバッハの武骨な革靴につき刺さったが、これまた不思議なことに、アイアンバッハはその場で痛みのあまり倒れ込んだのだ。
王女を縦に三人も並べてもまだ足りないような長躯であり、更にその身幅も王女を四人も五人も並べたような巨躯の男が、王女の小さな足で踏みつけられただけで倒れこむのはあまりにも異様な光景だった。
痛みに呻くアイアンバッハを無視する形で王女は切羽詰まった様子で尋ねた。
「だから、俺は――いや、単刀直入にいこう!俺は今、縮んだだけじゃなくて……女になっちまってるのかってことだ!」
王女様という肩書になっているということは先ほど自分自身で理解したのだが、それでも性別が違っているようだ、というのだけはやはり実際に聞かなければ納得がいかない。
真剣な表情で訊ねてくる王女に、アイアンバッハは蹴られた部分を擦りながらさも当然とばかりに首肯しながら言うのである。
「痛いではありませんか。――ええ、そうですよ。大変お可愛らしゅう御座います。本当にご母堂そっくりの外見で……」
見ているだけで心が洗われるようですと続けるアイアンバッハに、王女は床石を蹴り、その場にくるりと飛び上がると、宙で一転、アイアンバッハの脳天に踵を綺麗に叩き込んだ。
アイアンバッハも二度目であるためこれは防いで見せるつもりだったようだ。
腕を眼前に構えてこれを受け止め――と思ったらしいが、それよりも先に王女の踵はアイアンバッハの頭上に叩き込まれた。
まさに電光石火の早業である。
「いぎっ!」との悲鳴が早いか、それとも王女の動きの方が早いかといったところか――王女はアイアンバッハの頭上を飛び越えて危なげなく着地をすると、唸るように言ったものだ。
「じゃあその……なんだ、王女って言うのは単なるその…王族っつか、子供に贈られる愛称でもなんでもなく?」
「どんな愛称ですか」
「子供の頃はこの国では呼ばれる名前とかそういう風習でもなく!?」
「そんな風習あったら見てみたいですよ。――というよりも、何故今までそのことに気がつかれなかったのですか?」
「仕方ないだろ!朝起きて寝るまでぜんっぶ、侍女がやってくれるもんだから、俺は何も触れなかったんだよ!何からナニまで全部ですがなにか!?触って確かめようにもじっと見られてるんだ、出来っこねぇだろっ!?違和感あるなーとか、それこそ分かってはいましたけれどもね!?そんでもそこまで止まりですけれどもね!?」
「ああ〜……ご自分の身体ですのに未だ不明瞭であると……そういうことですか」
なるほどだからですかと納得がいった様子のアイアンバッハとは逆で、王女は苦悩している様子である。
朝起きてから夜寝るまでを全て他人に管理されるのは、はっきり言って大変辛い。
というよりも不愉快極まりないというものだろう。
だからといってそれに不平を唱えても聞く耳持って貰えないのである。
それどころか王女の発言はことごとく無視されたのだ。
腹立たしいことに、王女はある種、個という存在と見て貰えていなかったのである。
確かに高貴な身分の者はそういう扱いをされることが普通なのかもしれないが、王女はなりたくてこんな身体になったわけでもない上、元の身体の記憶が全てあった。
お陰で腹が立つやら何やらであった、が――それもいつしか慣れてしまっていたのだ。
自分が自分でないのか、もしかしたら王女は一度死に、別の誰かとして生まれ変わったのか――などといったことを考えに考え続け、結局そのうち考える事すらやめてしまった。
けれどそれももう終わりだ。
様々なことを考えたけれど、今日、やはりこの身体に――というよりも、この王女という人物の居る場所に、現在王女自身が一時的に間借りしているような状態であると確証が持てたのである。
その確証とはアイアンバッハであった。
王女の持っている記憶に間違いがないことは、アイアンバッハがアイアンバッハであると答えた時に確証に変わったのだ。
大丈夫、自分は何ら間違っていなかった。
ここに存在するのはあちらの世界の王女自身であり、別世界の誰かではないのだ。
そして記憶を保持したまま生まれかわったなどという、不可思議なことが起きているわけでないことも、彼の話を聞けばわかった。
アイアンバッハの声を耳にして、王女は表面上驚いたように見せなかったものの、内心では驚きと共に嬉しくて堪らなかったのである。
「本当に、俺は女になっちまったって言うんだな?それも……この国の王女様に?」
注意深く何度も訊ねてくる王女に、アイアンバッハは何度も繰り返し答えてやった。
満足するまで、納得するまで言葉を紡ぐ。
「もっと早く気が付くべきでしたな。そうしましたらいっそ楽しめたやもしれません」
「それはねーとしても……って言うかお前、いちいちうるさいぞ!
いや、というか、そりゃあ俺がちんたらしてたってことか!ああっ!?」
「そんなこと言っておりませ……っっ!」
いちいちうるさいやつだと発する前か、発しつつか――王女は今度は踵でアイアンバッハの膝裏を蹴飛ばすと、アイアンバッハは膝をついてその場に崩れ落ちた。
鋭い悲鳴が塔全体を震わせるように響き渡るも、王女は気づいていないのか一人勝手に話を続ける。
勿論悲鳴の元となる攻撃の手は休めずに。
「とりあえず再確認な?俺は五年前にこの国の王妃の腹から生まれてきたんだよな?そんでまあ、その理由はなんだ?だって俺はお前と暮らしてる間はちゃんと男だったわけで……この体でこの世界に居る事すらわけがわかんねっつーに、性別が違う?……わっけわかんね。って……おい、答えろアイアンバッハ!!何寝てるんだ馬鹿!」
自分で蹴り倒し、あまつさえそこにその小さな拳から繰り出された乱打をその身に受けたアイアンバッハは思う。
流石にその言い草は無いだろうと。
けれど不思議なことにアイアンバッハはそれでも笑みを浮かべていた。
「身体は矢張り、見た目もそうですが、元の通りのようですね。安心しました」
「そんなもんはどうでもいいっつの」
じりじりとした焦燥感の中で王女が言えば、アイアンバッハは首を振ってそうではないのだと告げる。
「お身体は確かに小さくなられましたし、何故か性別も変わっていらっしゃいますが――完全に元の身体そのままのようですよ、と言うことです」
そう、それは王女の本当の親の告げた通りだった。
『お前のふた振りの剣に案内をさせよう。道に迷った時はその剣が導いてくれるはず』
アイアンバッハの所有する魔剣は、きちんと役目を果たした。
王女が現れるまでの間、このリニムを指し示し続けていたのだから。
それを信じ続けるのは困難ではあったが、待ち続けた甲斐はあっただろう。
こうして王女はきちんと現れてくれたのだから。
「腕も足も元通り、きちんと使えるのでしょう?」
「腕も足も、鍛えればきちんと俺の動きについてこようとする。そう、だな。これは……俺の身体だ」
これはきちんと自分自身の身体であると首肯すると、王女は確かに、性別が変わったことよりも自らの肉体年齢が若返ったことよりも、先ず何よりも先に気づかねばならなかったことは、この肉体が元の肉体そのままなのだと言うことだったと気がついた。
「貴方様の身体は特別仕立てです。力はおよそ人とは思えないほどのものを持ち、体力も人の身にしては素晴らしいものをお持ちでいらっしゃる。そして何よりこれが肝心でいらっしゃいますが――貴方様が彼らのお子であるという事実は変わりありません」
アイアンバッハがそう口にすると、王女は若干纏う空気を柔らかなものに変化させたようだ。
安心したのかもしれない。
「どういう理由かは存じませんが、貴方はあちらの世界から、何故かこちらの世界の女の腹の中に落とされ……そしてこの世界での身分をもってここにいるようです」
「じゃあ、俺は一体なんなんだ?あっちの俺と今の俺は、まさか……別人か?」
「それはないはず。貴方の身体は先ほど申しました通り、特別仕立てで御座います。元のまま、腕も足も魔法がかけられたが如くのままでありましょう?」
その言葉に王女はこくりと小さく頷いて見せた。
鍛えれば直ぐにも元の通りに動くようになってくれた手足。
これは元の身体のままだと思う。いや、そのはずだ。
「俺は……あの人らの子供でいいんだよな?」
不安げに見上げてくる王女の姿に、アイアンバッハは柔らかな笑みを浮かべてみせる。
「それは変えようのない事実でしょう。兎角今この世界、そしてここに居るのが私共二人だけなのかは分かりませんが、少なくとも私は一人で貴方を追いかけ、ここまでやってまいりました」
「……それはどういうことだ?」
その言い草ではまるで、「王女の方が先にこちらの世界に落とされた」ようではないか。
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