王妃とあえば、王女はミカエル達の件も相談できるだろうか?
そのように考えてここまで連れて来て貰ったわけなのだが、王妃が何と答えるのか、皆目見当がつかない。
(俺は自力で逃げないと後々面倒そうだけど、王妃は違う。攫う様に連れて行かなければ最後まで固辞しそうだ。んー……でもまあそうだな、そんときは俺がおぶって逃げてもいいか)
ただし、今の身長でそれが出来るのかは分からないけれど――それでも王女は王妃を見捨てるつもりはなかった。
あの出会いがなければ恐らくそれもなかっただろうが、今では手放すことなど考えることが出来ない。
(これが親子の愛ってやつなんだろうか?)
ふいにそんなことを考えてしまい、笑えてきた。
愛なんてものを知らないはずの自分が、何を世迷言を言っているのだろうか?
(あんたに話したい事があるんだ。ルーズベルトのことも、反王族派のことも……男爵夫婦に助けられたって言ったら、あんたどんな顔するかな?)
ミカエル達の話しに水の精霊、他にも今日あった全ての出来ごとを王妃に相談してみたかった。
――というよりも、単に王妃と話しがしたかっただけなのかもしれない。
けれどこれは良い考えであるかのように思えた。
そもそもこんな話し、この世界の部外者である王女もアイアンバッハも全くの役立たずだ。
自分達だけじゃ判断出来ない。
そしてミシェルにいたっては――
「無理、だよなぁ」
だからこれは、本当に良い考えだと思ったのだ。
天極宮に行くまでは。
天極宮はその林道を進んだ先にあると説明を受けたと同時に、王女は僅かな死臭をその鼻に感じ取った。
嫌な予感がした。
王女は天極宮へ足を踏み入れた途端、来なければ良かったと後悔した。
誰に向けて言ったわけでもなく、王女は小さく嘘だと呟く。
王妃に仕えていた侍女のものと思われる亡骸が、ごろりとそこかしこに倒れていると言うのだ。
ミカエルが吐き気を堪えて言うのを聞けば、王女はその場を弾かれたように飛び出していった。
「王女殿下っ!」
王妃の姿を見るまでは安心出来ない。
王妃は無事だと思いたかった。
けれど何か言ったらそれは逆事になってしまいそうで、怖くて必死で駆け続けた。
あの日あの時王女が追い出された部屋へ辿りつくと、扉の前で足が竦んでしまう。
「ここに、王妃が居るんだ」
居るんだ、居るんだと、何度も同じ言葉をうわごとのように呟く王女を目にして、ミカエルは口元を布で覆いながら扉を押しあけた。
死体をいくつも見た所為で、胃の腑から酸が込み上げてきたらしい。
うぐっとえづきながら喉と腹を押さえている。
ここは屍の臭いがしないが、王女の様子から嫌な予感しかしない。
きいっと扉が軽い音をさせて開いただけだというのに、なぜか背筋がぞわりと粟立つ。
「妃殿下……」
王妃は部屋の一番奥の天蓋付きの寝台の上に横たわっていた。
あの日別れたままの、綺麗な姿で。
ただし、毒で死に至ったからなのか、茨で絡め取られたような痣が、全身を覆っていた。
「……王妃は?」
分かっているくせに、内心で自身をそう詰りながら王女はミカエルに問う。
答えは、聞けなかった。
***
黒装束を上から一枚ずつ脱ぎ捨てながら、先ほどから溜息ばかりついていた。
元の衣服を身につけると、おかしくないかと鏡の前に立つ自身を眺めやる。
姿そのものはおかしくないものの、そこには酷く陰鬱な顔をしている男の姿があった。
「顔……洗いましょう」
それくらいで気が晴れるわけもないと、なんとなくだが分かっていた。
顔についた水気を布で拭い、また鏡を覗きこむ。
そこでふいにこんな言葉が頭の中に浮かんできた。
「王女殿下は……紅を刷けたように赤い唇をしていた」と。
すると無意識のうちに、ミシェルは指の腹で自分の唇を撫でていた。
「――さようなら、一時だけですが楽しかったですよ」あれではまるで、名残惜しいかのようだ。
馬鹿げている、情でも移ったのだろうか?
勉強を見てやったから?
だから情が湧いた?
それらを否定するようにゆるく頭を振っていれば、背がすっと伸びた立ち姿の美しい老人がどこからかやってきて言う。
「首尾は……と、聞くまでもないことだったな」
「手はず通り、終えました」
「ふむ。あの王女のお陰でルーズベルトの配下も同時に始末することが出来た。して、王女の亡きがらはどこに?」
「郊外にある湖、その底に」
なぜ郊外まで行ったのか、とは聞かない。
それだけの攻防戦があったのだろうと察したからだ。
そして死体を見つからない場所に葬るにはあの湖はうってつけだったと理解したのだろう。
けれど理解はしても、どこか納得していない様子だった。
「なぜ亡骸を持ちかえらなかった」
「……ですがその、内密に始末するようにと言われておりましたから、亡骸は見つからないようにと……違いましたか?」
「ボルツフェル公より追加の指示が出た。“王女の遺体は持ち帰れ。傷をなるべくつけぬように”……だそうだ。お前はつくづく使えぬ男よ」
「……もうしわけ、ありません」
深く頭を垂れるミシェルを前にしても、老人の気は晴れない。
ミシェルに配下の者を使い、王女の亡骸を今夜にでも回収して来いと命じるなり、老人は来たばかりの道を帰っていった。
ミシェルは今まで老人の逆鱗に触れぬようにすることだけを学んできたように思う。
王女に教えた知識は全て、ミシェルが老人に見捨てられないようにと、必死で覚えたものばかりだ。
魔術も武術も知識も全て。
優しい言葉など貰った事も無かった。
けれど、ミシェルは悲しい事にそのことに疑問を抱かなかった。
ミシェル自身、出来なければならないと思いこんでいたから気づかなかったのだ。
おかしいと思う事もなかった。
だからこの時もミシェルはこう考えた。
「気を……回さなければならなかった、のか」
失望されすぎて、疲れ果てていたのかもしれない。
ミシェルは老人の消えた先を見つめ……やがて視線を下げた。
そして己が手のひらを見つめ、ぼんやりと殿下と呟いた。
あの艶のある黒髪が死した後どのような色になってしまったのか、知るのが怖いと思った。
+++
司祭が若い男を一人伴い、談笑しながら宮廷内部の庭園で散歩をしていた時のことだ。
そこに頭部を真っ白な布で覆い隠した童女が現れた。
曲者かと若い男が司祭の前に飛び出したのも馬鹿馬鹿しくなるほどに、その面は蒼白で、思わず怪訝な目を向けてしまう。
何があったというのか、その怯えようは流石に度を越しているように見えた。
「どうしましたか?」
童女の前に膝をついた司祭に、男は身元も分からないような子供を相手にするなと叱りつけるも、司祭は笑って取り合わない。
童女は染み一つない白い滑らかな頬の上を、はらりはらりと、まるで宝石のように美しい滴を滑らせている。
「母と、呼んでやれなかった……」
「母……?」
「死、でた……うっ、ふくっ、ぅえ、」
涙が止まらない童女を前に、若い男は嘆息をつきながら司祭に言った。
「神殿までお送りしましたら、この子供を送り届けてまいります」
「ええ、是非そうしておあげなさい。母を亡くした可哀想な子です。優しくしてあげるのですよ、候」
「私はいつだって優しいでしょうに」
司祭の後をついていく若い男の腕の中には童女がすっぽりとおさまっている。
時折童女を慰める様にその頬に指を滑らせたり、小さな手をあやすように撫でたりするが、童女は決して瞼を開こうとはしなかった。
涙を流しているという事実そのものから逃げたいのか、こんなの違うとぎゅっと瞑った瞼に手をあて、悔しげに唇を噛みしめていた。
色の濃い睫毛は黒――だろうか?
いや、それはないはず。
黒は王女の色であり、その色を持つ者は他に無い。
では濃紺?
それとも黒にほど近い灰色かと、童女の赤い眦に影を落とす睫毛をそっと撫でやる。
既に夕闇というよりも夜半と言っても差支えない時刻である。
そのため童女の睫毛の色は、はっきりとは判別出来なかった。
「随分とその子が気にいられたようですね、候」
「……まあ。安心しきって胸に凭れかかられればそれはもう、可愛らしいでしょう」
瞼は開かないものの、童女の容姿が整っていることなどすぐに分かる。
ぎゅっとしがみつかれているわけではない。
単に抵抗をされないだけだ。
けれど、それでも情が移るほどには可愛いと思ってしまった。
耐える様に唇を震わせる様が庇護欲をそそり、男をぐらぐらと揺さぶってくる。
それは司祭も同じだったようで、このような身分でなければ良かったのですがと一言前置くと、候と男に呼びかけた。
「いっそのこと引き取ってはいかがです?私は神子に仕える身であるため難しいですが、この少女、身なりからして貴族でしょう?供の者も居ないとなれば、下級貴族であるでしょうし……ならば候が引き取ろうと言えば諸手を挙げて喜ばれるかもしれませんよ?」
「……それは、この子供を今後娶ると言っている様なものではありませんか?」
男の年齢的なものもあり、他者からそう見えるだろうと言えば、司祭は笑みを浮かべてそれでも良いだろうと言う。
「勘違いでもされたならば、いっそそうしておしまいなさい。持参金はいらない。むしろ支払うと言えば手に入るのでは?」
「犬猫のやりとりではないのですよ?」
司祭に向けて嘆息をつくと、男は神殿まで早く戻りましょうと先を促した。
どうにも司祭は男に二度目の春がやってきたと嬉しそうだが、こんなに小さな童女に欲情などしようはずもない。
単なる庇護欲を感じていただけでまさかの言われようである。
「最も高位の司祭であるあなたが、生臭坊主だと知れたらとんだ醜聞沙汰です。少しは口を慎んでくださいね」
「そうは言ってもね、本当に気にいっているようだったから、私は純粋に友人のことを応援したいんだよ」
それを余計な御節介だと言うのだと、男は司祭の裾の長い下袴の端を踏みつけてやった。
+++
「ああ、アッシュ!ご無事でしたか!なかなかお戻りにならないので心配しましたよ」
「…………」
王女は塔の扉を開けてそこに居る事がおかしいと首を捻った。
だってさっきまで、天極宮に居たのに。
途中誰かが自分を慰めるように抱きしめてくれたような気がしたが、良く覚えていない。
というよりも、その抱きしめてくれる手とどのようにして別れたかもよく覚えていなかった。
それどころかミカエル達はどうしたのか――途中何があったにせよ、結局はあそこから逃げ帰って来たということだろう。
そのようにのろのろとした頭で理解すると、今度はアイアンバッハの肩まで緩慢な動作でよじのぼるなりその頭を抱きしめ撫でた。
もう、王妃にこうしてやることは出来ない。
アイアンバッハの、まるで獅子を思わせるような赤毛を散らすように撫でつづける王女に、撫でられ続ける当人は困惑顔だ。
「……アッシュ?」
「……なあ、アイアンバッハ。王妃がな……」
「はい?」
死んでたよ――アイアンバッハの頭を抱えながら王女は泣いた。
それを驚愕の眼差しで見つめていたのはミシェルだ。
王立図書館まで戻ってきたばかりのミシェルは、塔からやってきた王女の声を聞いた瞬間、思わずひゅっと息を飲む。
(なぜ、生きている?)
王女の姿を見とめれば驚き、そしてアイアンバッハの肩までよじ登り、その頭を抱えたところを見てしまえば、怪我すら負っていないことを悟った。
その瞬間、冗談ではないと内心吐き捨てる。
なぜ、風の精霊の最大出力の精霊魔術をぶつけて、ああもけろりとしていられるのか。
いや、それよりもむしろ――
「なぜですか?……また殺さなければならないとでも言うのですか?」
嫌だと呻くミシェルに気づかぬ王女は、なぜとえづきながら泣き続けていた。
王女は王妃が死ななくてはならなかった理由が知りたかった。
王女の中の幻の少女が、そのように訴えているようだった。
重なる思いが強す
次話に進む
トップに戻る