***
一人これを理解出来なかった王女は、先ほどの話しの内容を精査することくらいしか出来ない。
そこから理解出来たことはそう多くなかった。
「くそがっ!相変わらず愚かな王だなっ!なんで同じ道を歩もうとする!」
どの道を進もうとも、毎回この声は敵対国に対して宣戦布告に応じるような声明しか発しない。
降伏をしようとも、話しあいをしようともしないのだ。
まるでそんな道はもとから無いとでも言うように。
予知夢かそれとも誰かの記憶か――鮮明なその映像が瞼裏に浮かぶにつれ悔いが生まれる。
王女の予言は彼を思いとどまらせることは出来なかった。
(元からあの情報が交渉の切り札に出来るほどの時間は残っちゃいなかった。けれどまさかまともにやりあうためのものとして利用されるなんて……)
王女が記憶しているリニムの地形を頭の中に描き出すとざっとこんなものだった。
背に山を抱え、前方には平原。
ただし他国からリニムへ入ろうとするには迷いの森があるため困難。
リニムの者に招き入れられない限りは、リニム国内に入ることすら出来ない、守りの堅い鉄壁の処女のような国である。
恐らくは先ほどの奇妙な音は何か巨大な攻撃をこちら側から仕掛けた時のものだろう。
あの発言から考えて間違いないはず。
けれどその音を聞けば遠くまで何かに阻まれることなく一直線に飛んでいったように思えた。
それはつまり――
(迷いの森の向こう側を焼いたってことだろう。王は俺の言葉を逆手に取ったに違いない)
『まずはラグン砦を落とし、その場に陣を敷くだろう。なに、直ぐには攻めてはこないさ。ただし、引いてはくれない――』
引いてくれないということは、つまり敵はそこから動かないということの裏返しでもある。
ならばむしろ好都合とばかりに、王はそこに巨大な一撃を撃ちこんだのだ。
先ほどの音と地震の凄まじさを思い出し、王女はぎりりと歯がみする。
恐らくそれは相当な威力だったのではないだろうか?
更には来るならば来いと言わんばかりの先ほどの挑発行為。
これでは敵方は皆「リニムは恐ろしい兵器を持っている悪しき国。これ即ち倒すべき共通の敵である」という認識になってしまったのではなかろうか?
――それでは駄目だ。
力を示すだけで敵が引くわけがない。
それは支配だ。
それも、恐怖による支配。
力で人を支配しようとすれば、それは必ず反発を生む。
「……こんなんじゃ敵方は、皆仲良く力を合わせてリニムを叩きつぶしにくるぜ……ざっけんなよ、くそっ!」
王女には、敵がリニムとの和睦は無理と結論付けて強硬策に打って出ることが簡単に予想出来た。
過ぎたる力は身を滅ぼす。
リニムの王はそんなことも分からぬほどに暗愚な王だったのか。
王女は失望に似た感情を抱いて見えもしない空を見上げる様に顔を上向けた。
――その時だ、首筋をちりりと火であぶられるような鋭い感覚が走った――殺気か。
頭で理解するより早く身体が動いた。
王女は向かい来る殺気をかわそうと身を僅かに捩る。
すると先ほどまで王女の顔があった位置をかすめる様にして何かが勢いよく飛んでいき、王女の向こう側にあった壁にどすりと鈍い音を立てて突き立った。
音からして恐らくは刃のある何か――投げやすい短刀だろうかとあたりを付けた。
近くにアイアンバッハもいないため、その腰のものを借りるわけにもいかない。
そのため王女の手には何も武器となるものがなかったが、飛んできたものが武器になるもので助かった。
これ幸いと壁に突き立っているその短刀を手に取ると、力任せに引き抜いた。
「誰だ……」
王女が短刀を緩く構えるようにして見せると、周囲から人気が引いていくのが気配で分かった。
子供が握っているとは言え、手に持っているものの危険さは一目で十分に分かるものだったのだろう。
危険よと、王女に短刀を手放すよう促す声もあったものの、王女はそれに無視を決め込んだ。
ようやく取り囲む人が失せたのをこれ幸いと、王女がじっとそのまま殺気を放つ気配の持ち主を辿ってみると、何故かその気配が遠のいていったのだ。
「おい、逃げるのかよ?」
「おお、あなた様はアデレイド王妃の娘であらせられる、王女ではありませぬかぁ?」
王女に短刀を投擲した者とは別の者だろうが、突如現れたその声の主は王女の顔をひょいと覗き込んできて言う。
その声の調子があまりにも人を小ばかにした言い方で、王女は顔を顰める。
先日の一件は未だ生々しいものとして人々の記憶の中にある中の出来事だ。
これで騒ぎにならぬはずがない。
この言葉のお陰で我に返った者達がざわつき始めたではないか。
「魔力を持っていなかったとか言う王女様?嘘、信じられない。何でこんな所にいるのよ」
「嘘だろう?朽ち果てた塔送りになったって聞いたぞ」
一人が噂の不義の娘がここに居ると言ってしまえば後はもう、芋ずる式である。
次々と王女の周りに人が集まり始めてきた。
そうなると、益々アイアンバッハは王女の元へ辿りつけない。
通して下さい!遠くから声が聞こえるものの、一向に前へ進めないようである。
王女を見る目は蔑みというものだった。
けれどそれも仕方ない。
不義密通の末の子だと知られているのだから、侮蔑の対象として見られてしまうのは避けられないことだろう。
そんな中、今度は別の男が登場し、またしもとんでもない爆弾を投げ込んできたのである。
「その宝剣は……ルーズベルト様のもの。アデレイド王妃はもしやルーズベルト様と……」
「お前、何を言っている?」
一歩、また一歩と迫りくる男に、王女は押されるようにしてじりじりと後退していく。
けれど数歩も後退してしまえば壁に踵がついてしまった。
もう後ろには逃げ場がない。
かと言って左にも右にも逃げられそうになかった。
今や頼りに出来るのは手の中にある短刀だけである。
王女は短刀を逆手に握り直す。
力を込めて握りしめている所為か、ただでさえ白い手指が益々白くなっていた。
男は王女の目の前に跪くと、その手に握られていた短刀に指を這わせながら囁いた。
「この短刀は正しくルーズベルト様の短刀。あなた様は矢張りお二方のお子なのですね?……矢張り、儀式の際に魔力が無いと知れた時からうすうす感じてはいましたが」
「だから、何を言っているのかと俺は訊いているんだ!」
男の発したその言葉に反応したのは、何も王女ばかりではない。
王女らの目の前に、次々と怪しげな風体をした人物達が現れた。
アイアンバッハは人よりも頭一つ飛び出していたためそれにいち早く気がついたものの、身動きが取れないようである。
「アッシュ!」
「近づくな……それ以上近づいたら、斬る」
「あまり妙な考えを持たない方が宜しいのじゃあないですか?さっきの兄ちゃんがこの連中に連れていかれるのを見ましたよ?」
小憎らしいほど飄々とした態度の男が、妙な男達に混じるようにしてけらけらと笑う。
けれど跪く男達とは別なのか、男は王女に敬意を払うこともない口調でただ嘲笑う様にいうだけだった。
「お前もこいつらの仲間か?」
違うと分かっていても問わずにはいられない。
問いかけに男は笑って答えなかった。
仲間ではないということなのだろう。
男の言う「兄ちゃん」とは、もしやミシェルのことなのだろうか?
だとすると、身なりの良い男はミシェルを捕まえている?
――そんな馬鹿なと思いはしたが、王女は万一の可能性を考え、動けなくなってしまった。
王女が動かなくなったのを見て跪いたままに男が徐に前へ進み出てきた。
そして王女が動けないのをいいことに、頭を覆う被りものを無遠慮にもはぎ取ってしまったのだ。
思わず次にやってくるはずの更なる侮蔑や嘲笑に王女は身構えたが、どうしたことか、周囲のざわめきが何故か一瞬にして静けさに転じてしまったのである。
(なんだ……?)
今や「出来そこないの黒髪の王女」は、この国の誰もが知り得ている情報だ。
そして王女の見目の麗しいことはそれと対となる噂となっていたが、ただの噂と実際に目にするのとは全く違った。
美の女神すら羨む様なその美しさを前にすれば、言葉もない。
そして言葉を取り戻した暁には、一目見た瞬間に走った、雷に打たれたような衝撃を思わず感嘆のため息とともに吐き出すことしかできなかったのだ。
それも、一人や二人の騒ぎではない。
「お噂通りの美しさに、皆言葉もありませぬ」
「幼少期からこれとは……傾国と呼ばれるようになるのも後数年といったところですな」
「おい、止めろ。近づくな……」
「殿下、もう一人寂しい思いはさせませぬ……」
「お前……一体何を言っている?」
王女の美しさを前にすればひれ伏す事しか出来ないとでも言うのか、目の前に次々と額づいてくる男達に王女はたじろぐ。
気色悪い――ぞっと怖気が走った王女は自然と身体が逃げようとするのを感じたが、背には変わらず壁があるため逃げ場などあろうはずもなく。
不気味さを感じるもののその場で身じろぐことしか出来なかった。
「我らが殿下をお守り致します!さっ、こちらへ」
「やめろ!俺に触れんじゃねぇ!」
王女ががなりたてるも男者達は聞かず、そのままかどわかされそうになる。
王女の観察をし続けたミシェルは今、装束を改めていた。
もはやそこに文官の姿はなく、黒装束の顔を隠した男がただ一人、静かに佇んでいるだけだ。
彼等の依頼主は、どこに王女と繋がっている者がいるのか炙り出す仕事をしろと命じたはずだったが、それが中々見つからないことに痺れを切らしたのか、炙り出しを諦めてさっさと王女を殺してしまえと方針を変換してきたのだ。
それも昨夜それが決定された。
読み聞かせが終わっていたことになぜかほっとしながらも、ミシェルは自身の肩を軽く撫でた。
それは彼のいつもの癖だった。
いつもの如く癖が出たと同時にしまったと内心動揺したものの、それを「大丈夫」とでも言うかのように風がふわりとミシェルを労わるように優しく撫でていった。
それはミシェルの手の甲を撫で、肩を撫で、するりと空気に溶けていく。
依頼主の邪魔になる者達の炙り出しに成功しなかった――つまりは任務に失敗してしまったミシェルの処分はどのようなものになるのだろうか。
それがどのようなものかは分からないけれど、それでも怖いとは思わない。
ただ、別のことが怖いと思う。
またあの人たちを失望させてしまったのだろうかと、悔やむ気持ちだけはどうしても拭えないのだ。
黒装束の男となったミシェルが腰の帯を締め直してくるりと振り返れば、そこには彼の配下がずらりと控えていた。
彼らを見据え、黒装束の長としてただの名もない男となったミシェルは、軽く頷いて見せるなり所定の位置に控える為歩き出したのだった。
年の割には背筋のぴんと伸びた老爺が、顎髭をついと撫でて品よく笑う。
老爺が居るのは、王女を中心にした騒ぎが起きているその場所からは少々離れた位置だが、そこは騒ぎの一部始終を見下ろせる一等地である。
老爺はじっと気配を消して目の前の騒ぎを観察していたらしい。
「矢張り王女を引っ張りだせば自然と反王族派の者があぶり出されてきたな」
「では、予定通りに?」
「ああ、やれ。疑問を抱くことなく、始末しろ」
老爺が背後を振りかえりもせずに命じれば、老爺の後ろに控えていた男が恭しく頭を垂れる。
黒い布の隙間から覗く瞳から、生気が抜け落ちていくのを確認すると、再度老爺は「やれ」と命じた。
それを聞けばこくんと男は頷きを返し――半ば操られるようにして、似たような格好をした配下を従え男はその場を後にするのだった。
アイアンバッハが王女の元へと人々を傷つけないよう加減しながら人垣を割りつつ進んでいると、そこに黒装束の一団がどこからともなく現れた。
「王女!――いいや、偽王女よ、その命、頂戴するッ!」
「お前達、殿下をお守りしろ!」
「邪魔立てするならば、斬る」
音だけ聞こえる王女としては、はっきり言って何が何やらただただ訳も分からず困惑するばかりだ。
とりあえず状況説明をしろと叫ぶも伝わらない。
正直言って俺を無視して話を進めるなと言いたいものだ。
「ちょっと待てっつーの!状況がわっかんねんだよ、マジなんだってんだっての!」
剣戟が始まる前には悲鳴と共に周囲から人の気配が一気に失せる。
巻き込まれてはかなわないと一般市民が逃げていったのだろう。
それが正解だと内心呟きながら王女は戦場と化した城下町、その狭い路地裏に混乱に乗じて飛び込んだ。
とりあえず何が何やら分からないので、向かってきたやつは片っ端から切り捨てよう――王女は難しく考えるのを止めたようだ。
今は兎に角生き残ることが先決である。
話は生き残ってから、残ったやつとすればよいだろう、そう考えた。
路地裏に駆けていく王女に待てと追い縋るように声がかかるも王女は立ち止まらない。
黒装束も王女を守ろうとしている反王族派と呼ばれた王女に額づく者達も、王女が馬鹿なことをしたものだと思った。
狭い路地裏になど飛び込めば直ぐにも追いつかれて背中からばっさりやられるのが関の山。
逃げおおせることなど出来ようはずもない。
けれど王女は全くの逆で、男達から逃げきるつもりで狭い路地裏に飛び込んだのである。
狭い小道を裾の長いスカートを物ともせずに駆けて行く王女に、内心舌を巻くのは追いかける黒装束の男である。
子供の足ではないなと思いながら鉄釘を擲った。
それは王女の小さな後頭部に吸い込まれるようにして、一撃で王女を仕留める――はずだった。
王女が弾かれたように振りむいたと同時に、その小さな手に握られた短刀の柄が、黒装束の放った鉄釘の先端を叩いたのだ。
すると王女の後頭部を貫くはずだった鉄釘はそのまま黒装束の元へ返される。
王女は自分に向けられた攻撃をただ返すだけで黒装束の命を呆気なく奪い去ったのだ。
黒装束らを統括していた男は、目の前で配下の者達が次々と打ちとられていく様を目にして度肝を抜かれていたようだった。
「化け物か」
組織の末端に近い者を王女に向かわせたものの、まさかそれをこうまで容易くいなすとは考えもしなかった。
男の率いている複数の部隊、それに所属することすら許されない末端の者達――けれど、彼らとて組織の一員だけあり、その腕は確かなはずだ。
それがあのような幼子相手に打ち負かされているのは、最早冗談のような光景だろう。
「見えないからこそですか……」
王女は狭い路地に自ら飛びこむことで、敵の位置を悟りやすいようにしたのである。
周囲を壁により取り囲まれた場所ならば、音の反響で敵がどこにいるか分かる。
けれどそんなことを知らない敵は王女に誘われるままに追いかけていき、そのまま一網打尽にされてしまったのだ
背に振りかかる刃を短刀で打ち払い、懐に飛び込むようにして返す刃で突き倒す。
ごろりと倒れた躯の中から、王女がふうと息を吐き出し這い出してきた。
「やっぱりちいせーから動きにくいよなぁ……」
「アッシュ!ご無事ですかッ!」
「おー……って、団体さんくっつけてくんじゃねーよ!帰れっ!」
王女をようやく見つけて嬉しそうな声を上げるアイアンバッハだが、見つけて即座に帰れである。
あんまりだと思いはするものの、確かに背にくっ付けてきた殺気をぷんぷん撒き散らしているような男達は邪魔である。
「ではこれ、でっ!」
ぶおんっ、大気を震わせる音がしたかと思えば次の瞬間、アイアンバッハの背後より迫ってきていた男四人が、彼の拳一つで派手に吹き飛んだ。
「まあ豪快ですこと。――今の俺には出来んような気持ちのいい攻撃だなぁオイ」
「そうですね。以前のアッシュでしたらこれくらいは造作も無く出来たことでしょうが、今は大変可愛らしいなりをしていらっしゃいますから。こういった芸当は少々厳しいかと」
「……お前後でしばくからな」
「な、なぜ?」とアイアンバッハは動揺しながらも王女に魔剣をどこぞの空間よりふっと呼び出すなり一振り手渡すと、自分は二刀流から一刀流に構えを変えた。
流れるように渡す方も渡される方もそれを当然のように受け入れていたが、やはりどこか二人は抜けていた。
「ミシェル殿は無事でしょうか?」
「……大丈夫だろ。それよりも今は自分が生き残る事を考えろよな」
王女は渡された大剣を担ぐようにして持った――のだが、少々困ったことになった。
「軽くて浮いちゃう」
何が軽くてとは言いたくなくて、王女は地面に突き刺さる切っ先から伸びた剣の持ち手から、ぶらぶらとぶら下がりながら情けない顔で言ってやれば、アイアンバッハが然もありなんと頷いた。
「……ああ、今は体重が随分と軽くていらっしゃいますからね。剣を持つことは出来ても、その身体とのつり合いは取れないのかもしれません」
仕方ありませんねとアイアンバッハからやれやれと肩を竦めながら言われれば、王女は暫し考え込み、
「…………半分に折るか」
との一言。
それは勿論、アイアンバッハから借り受けた剣をだろう。
「おやめ下さいアッシュ!それはあなたのお父上から私が下賜された宝剣ですよ!!」
「ちょっとだけ、ちょっとだけだから!ぽっきり折るだけダカラーッ!」
「一度折ったらお終いでしょうがっ!」
「だってこれじゃあ俺が使えねーじゃねーかっ!」
などと言いつつ、突如「やぁっ!」と王女は声を上げて全身をばねのように使い、大剣を放り投げた。
それは剣先を頭に一直線に飛んでいき、民家の屋根から王女達へと飛びかかろうとしていた黒装束の胸元に、何の抵抗も感じさせないままに吸い込まれていった。
これで見えないとは信じられないとばかりにアイアンバッハが目を見張れば、王女はそれには気づかなかったのだろう、肩を竦めてこんな時ばかり子供っぽい口調でのたまう。
「ほらな?こういう使い方しか出来ないじゃんか」
王女に倣ったのかアイアンバッハが肩を竦めた――が、今日は次から次へとなんなのか、王女の背後に黒煙が立ち上るのが見えて、一瞬焦る。
目にした瞬間思わず飛び出しかけるが、主である王女が全く動きもしないのでアイアンバッハはなぜと戸惑った。
なぜならいつもこうした事件が起きるたび、そこに真っ先に飛び込んでいくのは王女なのだ。
早く助けなくてはと駆けだしていく主を追いかけていくのはいつだってアイアンバッハだった――けれどそこでふとしたように気が付いた。
そうだ、王女にはこれが見えていない。
「どうした?」
「あちらで火の手が上がったようです。少々お一人にしてしまいますが、大丈夫ですね?」
「誰に言ってんだ。さっさと行って来い。俺は役に立たねーから待ってっからさ」
これに首肯で返したアイアンバッハは一目散に火災現場へ駆けていった。
+++
それからどれくらいの時が経っただろう?
火の手は鎮火したのか、少し前から王女の付近までも漂い始めていたきな臭さが若干薄らいだ頃のこと、アイアンバッハの声がする。
「――アッシュ、アッシュ、済みませんがこちらまで来ていただけないでしょうか?」
「うん?」
待っている間体を休めていた王女は、むっくりと起きて声の招きに従い進む。
声を追いかけ進むうちに、奇妙なことに気がついた。
(アイアンバッハの気配はしないのに、声だけが近くに聞こえて違和感しかねーや……)
更にはどんなに追いかけても近づけない声に、王女はとうとう立ち止まってしまった。
「いかがいたしました?」
「……早くて追いつけない。っつか、今どこにいるんだよ?」
「そんなに遠く離れてはいませんが……矢張りアッシュはまだお小さくていらっしゃいますから、仕方ありませんね」
いつも通りのからかう口調。けれど、なぜかそれにも違和感が付き纏う。
止めていた足をまた、一歩、一歩とまるで疑うように進め始めた王女に、アイアンバッハは更なるからかいの声をかけた。
その声色はまさしく彼なのだが、王女はなぜか声の主が彼であることに最後の最後で信じきれない。
「何故そのように警戒なさるのですか?」
「……姿を見せろ」
「私はあなたのアイアンバッハで御座いますよ?その私をあなたは警戒していらっしゃる。何故なのでしょうか?」
「いいから早く姿を見せろってんだよ!」
「しようのない方だ」
アイアンバッハの声がそう呟いた瞬間、王女を取り囲むように四方八方から鋭い唸り声を上げて突風が突如飛び出し迫りくる。
王女は咄嗟の判断で逃げられるのは頭上のみと結論付けると、重たい剣をその場に躊躇なく置き去りにして、ひらりと飛び上がる。
けれどそれも計算の内だったのか、四方を取り囲むようにしている突風は、王女を追いかけるようにしてその向きを上へと変えたのだ。
「これが魔法ってやつか!?」
魔法や魔術に関して、王女は全くの門外漢である。
風そのものを操る魔法があることを知らなかったのだ。
「いいえ、これは魔術です。それも、精霊を使役する魔術――精霊術。ああ、あなたは魔の力を持たぬ、偽の王女様ですからね。それを知らぬのも無理はありません」
「くっ!」
王女はそのまま民家の屋根に飛び移ると、見えない鋭い切っ先が迫るのを交わすべく、逃げに逃げ続けた。
屋根瓦を抉る異音が迫るのをかわし、王女が顔を歪めつつ逃げるのを、アイアンバッハは面白そうに風を操り、追いかける。
「ほらほら、もっと早く逃げませんと、追いつかれてしまいますよ」
「いたぶってんのかよ、くそが!!」
王女が次々避けられるのは、王女の高い身体能力もさることながら、アイアンバッハの繰り出す風が王女ならば逃げられるだろう早さで繰り出されるからだ。
そのぎりぎりの見極めをこの短時間にやってのけるのだから相手も相当な玄人だろうが、今はそのようなよそ事を考えていられるはずもない。
飛んで、かわして、息も絶え絶えになってきた頃のことだ、どうやら追いかけっこはここで終わりのようである。
足場がなくなってしまった。
前からも足元からも風がぶわりと抜けてくる。
王女のつま先が何か固いものに触れて、それが抵抗をすることもなく簡単に滑る。
コツリ、目の前にあるのは崖だろうか?
つま先で弾いた「何か」は、儚い音を残して落ちていったようである。
それも、落ちたその「何か」は着地した音を王女の耳に返してこない。
ごくりと生唾を飲み込んだ。
まるでその「何か」の残した儚い音は、王女のこれから辿る運命そのものを暗示しているようにすら思えた。
(どうする……どうすればいい……?)
背後に迫る風が、びゅうびゅうと唸りを上げて直ぐそこまで来ている事が分かると、王女は僅かでも助かる道が残る下に落ちることを選択した。
途端王女を包むのは冷たい風だ。
暗闇の中どこへとも分からぬまま落ちるその恐ろしさは言い表すことの出来ないほどのものだった。
けれど、
(まだ何も知らないんだよ!この世界に喚ばれたわけも、この場所で生きる意味も、役割もだ!あの女の子のことだって何も分かんねーよ!だから俺は、まだ死ねないんだっての!)
生きたいではなく、義務感にも似た「生きなければならない」という強い想いは、王女の内に眠る水の化身の力を花開かせた。
王女が身を躍らせたのは、断崖絶壁。
そしてその下は湖だった。
けれど、たとえ落下地点が水場であろうとも、上手に落ちる事が出来なければ着水時に怪我どころか死は免れない。
だがしかし、水場はこの時の王女にとってみれば自らの領域のようなものだ。
王女に差し向けられた刺客にとって、あまりにも時と場所が悪かった。
王女の内に眠る水の化身は、眠りから目覚めたばかりだと言うのに、本能で動いて王女ごと自らを守るべく動いた。
湖の水を手繰り寄せるべく見えない腕をぐいと伸ばすと湖面の中央がこんもりと膨れ上がる。
それを知らぬままに笑うのはアイアンバッハ――いや、その声を操る刺客だ。
風を操り王女を追いかけつつも、王女の最後となるであろう一撃を放とうと風を操りだしたのだ。
風が幾重にも重なりあい螺旋の渦を生み出すと、
「さて、これでお終いです。さようなら、一時だけですが楽しかったですよ」
そう言うなり、そのまま中空で鋭い風の刃を避ける事も出来ない王女へ向けてぶつけたのである。
刺客はそのまま王女の最後を見届けずに踵を返した。
彼はこの下が湖だと知っていたのだ。
死体の確認のしようのない場所のため、そのまま帰ることとした。
特に何の変哲もないいつもの通りの段取りだった。
「あーっ、あぁ……んんっ。ん〜……ぁあ、声、直りましたかね?」
喉のあたりに多少なりと違和感が残っていたが、それも仕事の後では仕方ない。
元通りになった声に満足すると、男は老爺の元へ始末したとの報告を持ちかえることとした。
王女はこの世の法則を無視し、水面に人が腰を据えていられているという、自身に起きた摩訶不思議な事象を把握出来ていなかった。
ただ、あやふやで不確かな感触を与えて来る「何か」の上に座っているということだけは理解出来たようである。
渋面を作り耐えていた。
暗闇に身を置くということの恐ろしさはこの五年で嫌というほど身にしみた。
慣れることは出来た――と思っていただけだったのだとはこの時嫌というほど痛感させられてしまう。
王女の知っている「この世の理」――これが通じる世界が闇の中にも広がっていればこそ、それは恐ろしいものでなかった。
けれどそれが通じない世界ではただ恐ろしくてたまらなかったのだ。
自身の置かれた状況を、王女は全くといっていいほど自覚出来ないでいる。
けれどそれも直ぐに終わりを告げるだろう。
既に王女に対し、“神子”は状況を説明してくれる案内役を寄越してくれているのだから。
水をかくような音が近づいてくるのを、王女は身を強張らせて待つことしか出来ない。
「……これは驚いた。あなたは水の精霊をその身に宿しているのですね?」
「素晴らしいものを見させていただきましたわ」
「水の精霊?」
穏やかな男の声と共に、優しげな女の笑い声が重なって聞こえれば、王女の全身を支配していた緊張がようやっとほぐれてきたようだ。
「おや、ご自分でお気づきにならない?あなたを先ほど守ったものは、あなたの内側から力を行使した水の精霊ですよ」
どうやら王女は目の見えないことで、自身を知る機会を見逃してしまったようだった。
そして逃げだす機会をも逸してしまったようである。
「おや……これはこれは、もしやあなた様は王女殿下では御座いませんか?」
「まさか……黒髪、そして闇の様な瞳。本当に王女殿下でいらっしゃいますの?」
顔をまじまじと覗きこまれてしまえば流石にもう人違いですとは言えず――結局王女はこの二人に強引に引きとめられてしまうことになったのだった。
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