ミブラ原書
この世界を生み出した創造主はこの世界に飽いたのか、いつしかこの世界に目もくれぬようになった。
完成したものに興味はないということだろうかと、絶望しながらも創造主の生み出したる唯一の子である神子が、この世界を悲しみ、そして惜しんだ。
失われてしまうにはあまりにも惜しかった。そうして神子が愛でてやり始めたことにより、この世界は一度は朽ちかけたものの、また持ち直したのである。
神子は創造主とは違い、自分に似たものを生み出そうとしても、なかなか上手くいかない。
最初に生まれたものはどこかが歪み、異形であった。
それこそが魔性なるもの、そして妖かしなどと呼ばれる存在。
神子は次こそは失敗してはならないと、慎重に生み出したのが人の子である。
力を持たぬ人の子は、神子のように不思議な力は使えなかった。
異形なるもの達でさえ使えた力が使えぬでは、生きるのに容易くはなかろうとこれまた頭を抱えてしまう。
神子は次だとえいっと力をこめて生み出した。
三度目の正直、生まれたのは神子に次ぐような圧倒的な力を持つ存在――精霊である。
ここで生まれたのが後に大精霊と呼ばれる存在である。
けれど困ったことに神子が生み出した完全なる存在である彼ら大精霊達は、生殖能力に欠けていた。
彼ら大精霊同士では、子を成せないのである。
異形なるものは子を成せない代わりに人の子の肉体を介して寄生するように生き続けることが出来た。
創世のころからずっとだ。
人の子は弱い代わりに集団で生きる術を学んだ。
繁殖力も高かった。
けれど、大精霊達だけが生殖能力に欠けていたのだ。
そこで神子は一計を案じ、大精霊の伴侶たるものを生み出すことを決意した。
自分が彼らを生み出したように、彼ら大精霊だって子を成したいと思うはずだとそう考えたのである。
神子はそうして生みだした。
人とも違い、精霊とも違う、その中間の性の子を。
魔力は人ならざるものを持ち、生まれながらに精霊に愛される存在である中庸の子。
大精霊と唯一交わることの出来る中庸の子は、大精霊の子を成した。
そして生まれたのは新たなる大精霊に中位精霊、微精霊などの子らである。
こうしてこの世界は、神子が新たに創造していくことになった。
いつか、あの完全なる世界に戻すことが出来ればと、今もまだ、神子は創造し続けている。
【創世の章より抜粋】
1
俺が記憶している限りのことを語ろう。
俺の知っている彼女は、神に生まれながらに愛された娘だった。
とある古い血脈を継ぐべく生まれてきた、高貴な血筋の姫でもあって――血筋というたったそれだけの事情でも、彼女は確かに神に愛されていたのだと証明できた。
リニムという、小国ながらも匠の技を持つその国は、周辺諸国と比べてみても栄えた国であった。
その国の王女として彼女は生まれて来たのだ。
それも、皆の温かい祝福を一身に受けて。
それは彼女の身分を考えれば当然のことと考えられなくもないだろうが、実際には王族として生まれて祝福を受けても、それが単なるうわべだけのことも往々にしてあるわけで――彼女が多くの民から心からの祝福を受けることが出来たのは、彼女の父母である国王と王妃が、真に国民達から愛されていたからこそだった。
神から愛されている彼女は、父母である国王と王妃、そしてその民からも真実愛されていた。
けれど、毎回祝福の中生まれて来れるとは限らなかったのが、彼女の運命の面白いところだ。
彼女の生まれてくるそのたびに、未来は少しずつ彼女に悪意ある形に姿を変えていくため、彼女そのものが時としては、『災厄』として見なされることもあり――そうした時、彼女にもたらされるのは祝福ではなく、惨たらしい死だった。
祝福の中生まれてきていた彼女はとても愛されていたけれど、災厄とみなされるようになれば皆、手のひら返しで彼女を憎悪した。
――まあ、一部からは熱心に愛され過ぎてその感情が『愛憎』なんてものに変わったものもいたが――それこそ彼女もその熱心に愛した者も、そんなことその『時』以外の当人に分かるはずもないんだが。
兎も角も――最初は祝福の中に生まれ、次第に災厄と謗られるようになり――ただ生まれてきただけなのに、彼女にはどの道へ歩むかも選ぶことが許されているはずがないため、生まれてくるたびに彼女は悲しいことに、ただ運命に翻弄され、弄ばれることしか出来なかったのだ。
けれど彼女自身は弄ばれていることを知らずにいる――俺はそれを知っていてどうすることも出来ずに歯噛みすることしか出来なかった。
だってそうだろう?
本人を前にすればそんなこと、言えようはずも無いのだから。
だから尚の事歯痒かった。
自分という中途半端な存在が憎くて堪らなかった。
(どうして俺には力がないんだろうな。俺が半端ものだから、だから彼女を何度も惨い死に方をさせ続けている。一度として幸せの中にいさせてやれない。それどころか救いだす事すら出来ない)
――何故、こんなにも世界は狂ってしまっているのだろうか。
「ただ、助かって欲しいだけなのに」
一人の少女がただ生を全うして、その命が燃え尽きるまでを生きて欲しいだけなのに。
ただそれだけを願っているのに、その願いを嘲笑うように何者かがそれを邪魔する。
それはそんなにまでも荊棘な道だとでも言うのか、それとも時艱なものであるのか――何故かその願いは叶わぬままに、彼女は七度目の死を迎えることになった。
無数の矢が彼女を射抜くその光景を、なんと称すれば良いのか。
少女を魔女と呼び、畏れ、彼女の臣下さえも刃を向けて来る。
彼女とその壁となる俺に向けて、剣と杖とが真っ直ぐに突きつけられる。
何千何万という軍勢がたった二人に向かってくるというそれは、なんとも惨たらしい光景だった。
一本の矢が彼女に突き刺さる、そのたびに薄い肩が、膝が弾かれ、地に叩きつけられる。
とっくの昔に倒れて己の意志では動くことはおろか、みじろぎすら出来なくなった彼女になぜそうまで……
どこまで彼らは無慈悲なのか――止めてくれと引き攣れた叫び声をあげながら、血塗れた指先が彼女に届く前に、その時の記憶は幕を閉じた。
自分がなぜ何度も彼女の死というものに立ち会っているのか、俺はそのうち疑問にも思わなくなっていった。
(一応最初の頃くらいは、なんでまた最初からやり直しているんだって思っていたはずなんだ)
けれどいつの間にか、彼女の幼いころに戻っている。
彼女の結末を迎えた後、それは必ず訪れるモノだった。
なぜこうなっているのかを気にすることは既になくなり、気にするのはいつだって彼女が死ななくて済む未来を得るには、どうしたら良いのか――ただそれだけだった。
何も考えなくなっていったことに疑問を覚えずに、俺は淡々とただその未来を模索し続けていた。
けれど、そんな俺の考えを嘲笑うかのように、俺自身は無力で何もできなかった。
それから何度も生と死を繰り返し、俺自身の精神は老いたはずだった。
けれどそれも感じない。
何度も彼女の時間を繰り返し続けていた反動がこの体から奪っていったもの、それは俺の記憶と精神の一部だ。
記憶の混線、精神の摩耗、記憶の欠落。
それらがお前の身に起きていると言われて、その時は納得したものの、次の記憶でそれは消えた。
忘れたことを、俺は忘れてしまっていた。
(どうすればお前は死なずにすむんだ?)
何度も訪れる彼女の死を、ただ受け入れることしか出来なかった俺は、ある時悟った。
『このままでは何も変わらない』と。
俺がどれだけ足掻こうが、これでは変わらない。
だから彼女の未来を、俺が根本から変えなくてはならないのだ。
そして今俺は、旅に出ている。
彼女を縛り続ける呪いを断ちきるために、あてども無い旅に出たのだ。
呪いの元はきっとあると信じて。
それは初めての試みであった。
ずっとずっと、やり直すことしか考えていなかったというのに、天啓に導かれたように根本を正そうと動き出したのだ。
俺には彼女を諦められる道理がなかった。
彼女だけが俺の唯一の存在なのだ。
異世界で初めて見つけられた、大切な愛し子。
(だから、一人でも助ける。……いいや、一人で、助けるんだ)
何を差し置いても。
――そして血を吐く思いで求めたそれは、二年の歳月をかけてようやく見つかった。
彼女の死から二年――あれ?本当に二年だっただろうか?
記憶がなぜか霞がかっていてよく思い出せない。
「我らが主どの、ようやく来られましたか」
「ようやく、とは?」
そもそも主とは一体どういうことなのだろう?
俺はこの男とは初対面なはずなのだが……
懐疑的な表情を顔に貼り付けていれば、探し求めていた男はなぜか口元に笑みを刷いた。
人には有り得ないことに男は宙に浮いていた。
水面に揺れて見える藻のように、ゆらゆらと漂うようにして見えるのは、男の長い髪の毛だ。
まるで女の様に美しい髪が生き物のように漂う様はあまりにも妖しい。
風もないのにもったりとしたその重そうな髪を揺らめかせながら、男――いいや、恐らくは目の前の存在には性という概念は無いように思う――は語りだした。
「いつもであれば間をあけず来ておりましたので、幾分時間があきましたな、と。主どの、願いはまた同じで宜しかったですかな?」
「願い?同じ?……一体何を言っている?お前は……誰だ?」
妖しげな空気は一変し、今やただ不気味さのみを漂わせ始めたその男は、俺の発言を受けてさっと表情を曇らせた。
それどころか嘆かわしそうな表情さえ作って言うのだ。
どうかしているとさえ思うが、相手は大真面目である様子。
「……主どの、だから私は忠告したのです。あなたがあの娘を救おうともがけばその分、あなたから私は対価を得なければならなくなると。そして、それでも足りずこうして……
矢張りあなたが使用した対価の数は、過ぎた量だった。だからあなたはそうして、現に記憶を失っていっているではありませんか。……あんなにも大切にしていたはずなのに、あなたは全て、覚えていない」
「覚えていない?……なにを、」
「では、あなたは覚えておりますか?あの娘と最初に出会ったその日のことを。何故、二人が出会ったのかを」
「最初に出会ったことなら覚えているとも!」
「では、あの娘とはどのようにして、なぜ出会ったのか……あなたは覚えておいででしょうか?」
「なぜ……出会った、のか……?」
なぜ、だっただろう?
そもそも理由などあったのだろうか?
それとも、無かったのだろうか?
よく思い出せない。
俺がじっと考えていれば、男は畳みかける様にして言葉を紡ぎ出し始めた。
「あなたが忘れているのは、我らが主となった時の記憶、これまた然り。そしてこちらにあなたが訪れた際の記憶。これもそうでしょう。あなたは覚えておいでではないでしょう?
――そして、あなたがあの娘を救いたいと願うようになった、全ての切っ掛け――それら全てを、あなたは忘れていらっしゃる」
きっかけと言われ、俺の頭がズキリと痛んだ。
それらは全て俺の知らぬ記憶なのだろう。
確かに俺は何故ここに居るかを説明出来ない。
この国の住人でもない俺が、あんな辺境の国の姫である彼女と知り合ったのか――それすらも思いだせない。
説明が出来なかった。
けれど、彼女だけが俺の唯一の存在であったことだけは思いだせる。
――いや、それしか思い出せなくなっていたということを俺は今このとき思い知った。
(なら、なんで俺はこんなにあいつを思うんだろう?)
まともに思い出せもしない記憶の中にその理由があるのならば、それはそこまで重要なのかどうか、疑っても仕方ないだろう。
深く記憶に刻み込まれたものならば、それは重要な記憶ということ――ならば、と思ったところでまたズキリと頭が痛んだ。
それは俺になぜ思い出せないのかと、誰かが詰る言葉のかわりのように思えた。
「主どのに今一度問いかけましょう。あの娘を真実救いたいと、主どのは願うのですか?」
「ああ、助けたい。俺は、あいつが死ななくてもいい未来を得たい」
自分自身なぜこうまで必死になるのか分からないけれど、これだけは成し遂げなければならないということだけは分かっていた。
むしろ、それこそが俺の生きる理由になりつつあった――のかもしれない。
「重ねて問いましょう。そのためならばあなたは、更なる対価を支払える?」
「支払えと言うなら支払おう」
「何を、とはまだ、口にもされていないのに?」
口ぶりからして金ではないと言っているだろうことが分かって俺は肩を竦める。
「構わない。お前達精霊が金品で動こうとは俺だって思っちゃいない。だからお前たちが価値を見出すものが分からないからなんとも言いようがないが……何がいい?お前の望む対価を支払おう。なんなら、いっそ腕でも足でも構わんぞ。持っていくがいい。命まではやれないが、俺はあいつのためになら、なんだってする」
男はこの山に居を構えている、精霊と呼ばれる人よりも高位の存在だ。
人とは違う形態で生きているのだから考えていること等分かりようもない。
「――あなたは、記憶を失ってさえ変わらない」
ならば力を貸そうとばかり、男は朗々と詩のない歌を歌い始めた。
節だけをつけて歌うそれは、まるで天上の歌声だった。
けれど、それは始まって直ぐに中断されてしまった。
歌に呼ばれたように突如としてその場に現れたのは、美しい水の乙女だった。
背を垂れる流水はしぶきをあげて肩をつたい、流れ落ちている。
頬の滑らかさは人ならざるものゆえか、あまりにも艶めかしい。
ぞっとするほどのその美貌も、見る者によっては畏れのあまり震えあがりそうなほどだった。
男は歌の続きの前に、この乙女に邪魔をされたことの許しを請うてきた。
「いや、こっちの方が頼んでいるんだから、そんなことで謝らないでくれ」
どうにも調子が狂うというものだが、嫌になるほど男は低姿勢だった。
そして、それに倣うように、乙女も俺を敬い頭を垂れてくるから不思議だった。
「主どの、こたびは我も力を貸しましょうぞ」
水の乙女は水の膜を俺の身体を覆うようにして張って見せると、これで守りとなりましょうや?と、男に向かって尋ねた。
けれど、
「足りない。まだまだだ。もっと強固な守りがなければ主殿を守れはしまい」
俺が一人目を白黒とさせて身体を覆う膜を突きまわしていれば、男と乙女は勝手に話しを進め――気がつけば、乙女が俺の身体にぶつかるように飛び込んでくるところだった。
「なにをっ!」
ばしゃん!乙女に続くように胸に水球が次々飛びこんでくるのを見て、思わず腕で自らを庇うも無意味だった。
気づけば水はあとかたも無く胸の中に吸い込まれて消えてしまっていた。
思わず胸を擦り水で濡れていないことを確認すると、男へと視線だけで問いかける。
けれど男はそれに関して何も答えようとはしなかった――いいや、俺に分かる言葉で答えようとしなかったと言った方がいいだろう。
「あれはあなたの身体を内側から護ると決めたようです。さあ、仕上げに取りかかりましょう」
男が中断していた歌を朗々と響かせ始めると、今度は急に先ほど水が当たった部分が熱くなってきた。
思わず「熱い」と呻くも歌は止まない。
胸を掻き毟り耐えるしかないのか――唸り続けてどれくらい経ったことだろう、天上の音楽が頭の天辺から爪先に至るまで、全身を揺さぶり始めたのだ。
「ぐ、ぁ、ああ、あ……っ」
音の洪水の中、全身がぎしぎしと痛みに悲鳴を上げている中、恐らくこれが最後になるでしょうからと言って、歌を中断して話しかけてきた。
それでも俺を襲う痛みはやまない。
男は彼女を守る術として、二つの選択肢を提示してきた。
最後の最後に単純な問いかけをして、気を抜いたところにぽろっと愚かそのものな返答をし……それにより化け物に命を奪われる旅人の話しがあったなと、ふいに小さな頃に耳にしたおとぎ話のことを思い出した。
義理の弟が仕入れてきたその寝物語は、今も俺を一人寝で寂しくない様慰めてくれる。
この世界の異分子となった俺には、あちらでの幼少の頃の楽しい記憶は、それだけしかもう残されていない。
他はもう、面白みもクソもないような記憶ばかりだ。
「――いかが致しますか?」
男の問いはこうだった。
一つはこのまま彼女の生まれてくる時代まで送り返し、その手前まで俺を送るというものだ。
つまり彼女の生をまたやり直すと言うことになるということ。
そしてもう一つは彼女の生に関してある程度の確実性はあるものの、俺がどうなるか分からない。
俺の身に危険性が増すそれは、俺と彼女を一緒に彼女の生まれて来る時代へ送るというもので――この二つに一つだった。
ならば俺の取る答えは決まっている。
苦しい息の下、俺は口を開いた。
「そんなもの、決まっているだろ?」
確実性があるならそれに賭けたかった。
俺がどうなるか分からないといっても、命に関わるかどうかは俺次第というのであればそれこそ好都合だ。
「あいつの運命が、今度は全部俺次第になるなら、その方がずっと楽だ」
相手は王族ということもあり、助けようと思っても手が出せない部分も多々あった。それを思えば本望とさえ言えるだろう。
自分が直接手を伸ばすことで助け出せるなら、こんなに嬉しい事はない。
「今度は俺があいつの運命を肩代わりするってことなんだろ?」
暈して言ってはいるものの、結局とどのつまりはそういうことなのだろう。
ならば俺はやると高らかにそう告げれば、男は何故か呆れたような――けれど笑みを浮かべていた。
「では、そのように。――ですが、仕上げの前に一言、申し上げたいことがあります」
「なんだ?」
「またあなたは、幾つかの若い記憶を失うのでしょう。そのことをせめて、思い出してください。記憶のかけている部分、それを思い出す事が出来れば、あるいは――」
男の言葉が最後の方だけ聞き取れず、問いかける様に口を開きかけたが、喉から押し出てくるのはもう、ただの呻き声だけだ。
どうやらもう、彼女と共にあの運命の日まで送りだされようとしているらしい。
けれどそんなことに構わずに男は続ける。
「次に会う時も、またあなたは『お前が神か?世界を統べるものなのか?』と……尋ねるのでしょうか?そろそろ寂しくなってきましたね。名を、いつになったら呼んでくださるのか……」
そして悲しそうに笑うと、男は歌の続きを紡ぎ始めた。
徐々に俺の意識も視界も薄れていき、最後にはぷつりと音を立てて全てが途切れてしまった。
何故、あんな悲しそうな顔をして笑われねばならなかったのか。
何かを訴えたがっていたあの顔も、思わせぶりな言葉の持つ意味も、何一つ俺は問いただすことなく彼女の元へまた飛び立った。
いつの間にか俺は、真っ暗な視界のきかない世界の中で、意識だけになり漂っていた。
俺の形さえもあやふやなものに変化しているのか、手を伸ばしてみても何も掴むことが出来ない。
床を蹴ることすら出来ず、もぞもぞと這いまわることしか出来ない。
(なん、だ……?)
ようやっと何かに触れることが出来た手は、どういうわけか俺のものにしては小さいように思える、確かな手ごたえが感じられないのも不快だった。
そう、気がつけば俺は――俺の手は、紅葉の様な小さな手のひらにかわってしまっていたのだ。
「うぅ?」
なんだこりゃ、そう零したつもりが実際には暗闇の中、呻き声のようなものしかあげることが出来なかった。
何故こんなことになっているのか。
目が見えないから確かめようがないものの、これはどう考えても自分の身体ではない。
そう訴えたいがそれすら出来ない。
夢か?夢なのか?
つい先日のことすら上手く思いだせず、記憶を手繰ってみて思いだせたのは、美しい大理石の磨き抜かれた床の上、その隅でうずくまる様にして寝入っていた記憶だけだ。
ああそうか、その時寝入って、そしてそれから何か――何かあったはずなのだが、何故か記憶が抜け落ちているような気がした後、気の所為か?と内心で首を捻る。
記憶がとんと抜けているような気がしたのだ。
そう、俺は記憶を失くしていることを、覚えていない。
古い古い記憶しか、最早思い出す事が適わなくなっていたのだ。
そして、そのことに気が付きもしない。
またも新しい記憶を失った俺には、最早ここに来る以前の古い記憶以外を思い出す術はない。
さあ、これからまた、彼女を救うための運命の物語を始めよう。
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