今日はバレンタインデーの前日の日曜日である。
この日は当日持っていく予定のチョコレートケーキを作る日と、前から決めていた。
まゆりは慣れないお菓子作りに四苦八苦。
初めてのお菓子作りというわけではないけれど、数回程度しかしたことのないお菓子作りだ、緊張もしているのもあるのかもしれないが、どうにも上手くいかない。
失敗はしていない――ハズ。
手順通りにやれては――いる。
けれど手早く済ませられているわけでもないし、キッチンが綺麗なままで済んでもいない。
あとでキッチンを汚したと母に怒られることは必至だと、思わずため息も吐きたくなるが、ただ単にこれは自分が下手糞で、その上ちまちまと手間取ってばかりいる所為であると分かっているから何も言えなかった。
兎に角バターとチョコレートを溶かし混ぜてしまわねばならないと、細かく刻んだそれらをボウルに放り込み、湯せんにかける。
大きな鍋にぷかり浮かんだボウル、それにゴムベラを構えて、逆側の手を添える。
そうしてゆっくりとチョコレートをかき混ぜていく。
そんなおっかなびっくりといった危うい手つきのまゆりの背後から、ソイツはやってきた。
「よう、まゆり。腹減った」
別に夜の仕事をしているわけでもあるまいに、無駄に色気がダダ漏れなこの男は、まゆりの兄貴分を気取っている、矢神喜一だ。
十歳も年上の男で、しょっちゅうまゆりの家にやってきては、まゆりの邪魔ばかりしていく。
今日も今日とてお菓子作りを邪魔しにきたらしい喜一に、まゆりは怪しい手つきをとめて睨みつける。
「――喜一さん、今作業中なんですが?っていうか、何度言えばウチが定食屋じゃないってわかってくれるんです?」
まゆりの家はこの近所で有名なパン屋ではあるが、定食屋ではない。
けれど隣家の喜一はまゆりの居る時に限ってやってきては、こうして昼食や夕食をねだるのだ。
朝は学校の先生をしているために出勤する時間が早いからか、朝食だけはねだられずに済んでいるけれど、昼と夕に必ずといっていいほど現れる喜一に、まゆりは毎度のことながら呆れたように言う。
何というか、疲れる。
土日は二食分も用意しなければならないからほんとうに疲れるのだ――と言いはしても、結局喜一に付き合うのがだが。
(まあ、嫌いじゃないんだけど)
むしろ大好きな兄貴分だからこそ、じゃれつくように頼られることがくすぐったくて嬉しくはある。
とは言えど、素直にそれを全面に押し出すことは、年ごろの今のまゆりには難しいのだけれども。
「んん?なーんかチョコレートくせぇと思ったら、ケーキでも焼いてるのか?」
「……そうだけど」
「俺は甘いのが好みだ。ビターを使うなよな。食うやつのことをきちんと考えて作れ」
「誰も喜一さんのために作るなんて言ってませんけど!?っていうか、バレンタインのケーキですから!つまみ食いは禁止……ってぇ!!もう!禁止って言った傍からなんで食べちゃうんです!?ラッピングだってしてないのに!!」
ぱくりと咥えられてしまったそれは、先に作ってあったチョコレートトリュフ。
信じられないとばかりに頬を紅潮させて怒りを露わにするまゆりに、喜一はトリュフをつまんで汚れてしまった指を咥えると、猫の様に目を細め、のうのうとこんなことをのたまってくれるのだ。
「俺の為のチョコなんだから、俺が食って何が悪いんだっての。包装されんでも俺は別にかまわねーし、むしろ作り立てが食えてうれしいぞ?」
「いやっ!だから!あんたのために作ったんじゃありませんから!!」
てらいもなく、さらりと真顔で言われてしまえば恥ずかしく、まゆりの口から飛び出したのは真っ赤な嘘で――けれど喜一は一回りも違う年齢だからか、まゆりのそんな言葉に気にした風でもなく余裕の笑顔。
そしてまゆりの言葉も何のその、もっと無いのかとチョコレートの催促すらしてくる始末。
友達にもプレゼントするんだと、こちらは本当のことを言ったにも関わらず、まゆり作のチョコレートは、トリュフだろうがケーキだろうが、全て彼の胃におさまってしまった。
そうしてチョコレートを食べるだけ食べると、喜一はまゆりのために誂えられた居室にむかい、ベッドにごろん。
「四時になったら起こせ」
そしてまゆりの枕に顔を埋めて眠ってしまった。
「っ~~!!もうっ!……だから!自由すぎるでしょ!?」
いい加減にまゆりが年頃の乙女なのだということに気が付いて欲しいのだけれど、十歳も違うと眼中にないからか、女のベッドを勝手に使い寝てしまうことに何の罪悪も感じていない喜一に、まゆりは少々しょげていたのは、まゆりだけの秘密だ。
そして、好きな女のベッドだからこそ、寝転がってその香りを堪能している喜一は、自分が変態であることをとっくに自覚していたのだが、それもまた喜一だけの秘密であった。
***
喜一が教師としておさまっている高校に、まゆりは一生徒としておさまっている。
ただし、受け持ちの学科が被っていないため、滅多に授業では会わないのだが。
そのかわりといってはなんだが――
「ちょ、またぁ!?なんで食べちゃうんですか!!」
「試食だ」
「試食って言うのはね、一口食べる程度のもんを言うんです!!全部平らげてなにを試食ですって!?どの口がそんなバカげた話を言っているのかしら!?」
「俺はじっくりと煮込まれたミートソースが大好きでご所望ですよ」
「何気に次の注文!?いいや、もしかしたら今回の駄目だしなのそれ!?ミートソースじゃなかったことに対する文句!?さあ、どれなの!?」
「サラダはお前にやる。有難く受け取り、むさぼり食え」
「それ違うでしょ!?喜一さんが野菜嫌いだからでしょ!?ありがたくもなんともないけど!?」
それだけ言ってひらり手を振り帰る喜一の姿に唖然茫然。
美味しそうに食べてくれるのはまゆりとしても嬉しいけれど、それでも酷いだろうと言いたくなる。
「てゆーか、私のお昼!」
カロリー計算した結果、昼は抜かねば駄目なことが分かったため、部活で腹を満たして帰るつもりだったのだ。
だからこれが食べられなければまゆりの昼はなし。
二時まで待って、部活でオムライスを作って、ようやく三時になり、全員で試食会となったこの時に、よりにもよってあいつがやってきてしまったのだ。
そしていつもの如くぺろり、平らげてしまう喜一。
あんまりってものだろう、作ったばかりのオムライスは全部消えてしまった。
僅かに残されたのは、皿にこびりついたチキンライスが数粒と、サラダのみ。
皿に視線を落とし、ひもじいなんてもんじゃ済まないと、ぐうぐうと鳴る腹を押さえてまゆりは怒りで肩を震わせた。
「私のおひるぅうううううう!!」
「あああああ……し、仕方ないよ、まゆりちゃん。ほら、私のオムライス半分あげるから」
「特大オムライス作って全部食べたかったんですううううう!」
地団太踏んで悔しがるまゆりに、部活仲間は「これじゃあいつまでたっても、まゆりちゃんは自分で味見出来ないね」と苦笑する。
そうなのだ、味見をするかと口をあけて一口分のオムライスをぱくり、食べようとしたその手を奪われた。
喜一はまゆりの手からオムライスを文字通り、奪い去っていったのである。
因みにそんな光景は毎度この家庭科室では馴染みのもので、部活仲間としてはいい加減に見飽きたそれでもあった。
当事者たちからすれば諍いなのかもしれないが、周りからすれば糖分過多と言いたくなる光景。
実に甘ったるいやり取りにも見えるのに、どうして毎回こうなってしまうのか。
「ひどい!あんまりだ!お腹減った!」
「まあ、仕方ないよね。食べられちゃったんだから」
「そんな風に笑わないでくださいよ!」
苦笑している暇があるのならば、あの駄目教師をここに入れないよう対策してくださいと、まゆりが訴えても無理との言葉が返された。
「どうしてですか!!」
「目の保養がなくなるのが嫌だから」
きっぱりと言い放たれたその言葉に、肩を落とす。
「……やつがイケメンだからか。イケメン無罪なのか。世の中腐ってる!!」
そして喜一の挙動一つ一つに振り回される自分は本当に一体何なのかと、恥かしいんだか悔しいんだかで机に突っ伏していれば、友人が慰めの言葉を贈ってくれた。
それでなんとか気を持ち直したところで、お腹減ってるだろうからと、残った材料でささっとチキンライスを作った彼女は、そいつを差し出してにっこり。
「――帰りになんか食べてかえろ?ね?」
「み、みっちゃん……っ!」
彼女の優しさに泣いた。
「なんていうか、いっつも思うけど、凄いよね」
喜一に執着されまくり、などと言われていたことなど、まゆりが知ろうはずもなく。
一年経ったバレンタインの今日、まゆりは二回目の手作りバレンタインを迎えていた。
今年はバレンタインが休日で、友達には明日手渡す約束である。
はりきって湯せんしていれば、毎度のことながら勝手にあがりこんでくる喜一に、まゆりは「お昼はあっち」と忙しそうにしながらぽつり。
――それからは本当に酷いものだった。
チョコレートをまたも溶かしていれば、俺が仕上げしてやる?
は?
喜一さん、今私が何を作ってるか知っててソレ言ってる?
これから生クリームを注ぎたして固めるだけのトリュフに、仕上げもくそもないだろうにと、まゆりが考えていることなど、知っているのかいないのか、喜一はまるでえものを前にした肉食獣のような笑みを浮かべている。
それを見れば背筋がぞくりと粟立って、それをごまかす様にまゆりは強い口調で言うのだ。
「あっち行っててくださいよ。仕上げもなにも、今年もちょー簡単なトリュフなんですから。お手伝いなんて必要ないんですー」
可愛げもなく言い放てば、必要だろと返ってくる言葉。
えっと思い、まゆりがボウルに落としていた視線を顔ごとあげれば、喜一から手が伸ばされる。
ぬるり、唇に生温い感触がしたかと思えば、喜一の端正な面が近づいてきて――
気づけば甘ったるい味が口内に広がっていた。
「い、い、ぃいいい!?なななな、なにっ」
「色気がねぇなぁ。まあ、それでいいんだけどな。……さてと、これを全身に塗りたくって完成だな?」
喜一は解けたチョコレートが塗りたくられた唇から、指でそれを塗り伸ばす様にして喉まで塗りたくってやると、そのまま先ほどまゆりの唇にしたようにして、そこも丹念に舐めとっていく。
自分で汚しては、自分の舌でねっとりとなめとっていくその行為に、ようやく思考が追い付いてきたまゆりは、喘ぐようにして「なにしてるの」と喜一に尋ねた。
なぜだとか、なにがしたいのかとか、どういうことなのかとか、疑問は尽きないけれど、そもそも彼が何をしているのか、これが現実なのかとか、そっちのほうがまゆりには問題だった。
けれどその質問に喜一は答えず、かわりにこう言うのだ。
「十八の誕生日おめでとうまゆり。頭の先からつま先まで、このまま全身あますことなく食ってやるよ」
そうして粟立ったように感じたのは、身体なのか、精神(こころ)なのか。
世界で一番甘い日に生まれた
(こここ、これっ!!しょ、しょしょ、初心者には難易度が高くありません!?てゆーか、なんか順番おかしい!!)
(チョコ塗りたくって全身むさぼり食ってやった、ただそんだけだろうが。何が「難易度が高い」んだよ。ここからセックスまでのコンボが続いてるんならまだしも、そこまでは流石に止めておいてやってるだろーが。あ?)
(それ何プレイ!?いやもう、それもおかしーんですけど、そうじゃなくって、私が言いたいのは順番!好きって言って貰ってないんですってば!!)
(あー?)
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時期外れなんですが、チョコレートな日が誕生日の子のお話。
中編程度にすればよかったかなと思いつつ、短編に無理くりしたので変かな!?
一方的に重いくらいの愛を注ぐ年下溺愛モノでした。
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